Lunar Eclipse




「準備は済んだか?」

「ああ」


草履を履き庵の扉を潜ると、空は暗く星が瞬いていた。
そんな中、男に先導され、すぐ近くに存在している暗い森の中を進む。
外は風も無く、何時もの静寂を保っている森はやはり居心地が良かった。
いきなり『森に行く』とだけ言って俺を外に連れ出した男はただその口元に微かな笑みを浮かべながら、着物の上に羽織った見慣れた白い上着の裾をはためかせつつ、出っ張った木の根を跨ぐ。
男がこうして突発的に何かをしたいという事は少なく、言い出す時は大抵良い事があるので俺も反論せずに着物のまま、男が昔くれた灰色の肌触りの良い素材で出来たマフラーを巻いてから外に出た。
まだ其処まで寒さは感じないものだから上着は必要性を感じなかったのだ。
そんな事を考えていると、男が広く張り出した木の枝を折れぬ程度に押さえ、俺が通るのを待っているのでわざと仰々しく会釈をしてから其処を通ると男が苦笑しているのに気がつく。
なので俺は男がその枝を避けてから此方に来るのを見つつ、笑いながら囁いた。


「どうも有難う」

「……どう致しまして」

「……アンタってどれだけ経ってもやっぱり面白いな」

「其の言葉、そのままそっくり返すぞ……七夜」


男の言葉に肩を竦めると、互いに笑ってしまう。
初めは男と殺しあう仲だったというのに次第に惹かれ合い、共に暮らすようになって何年か経った。
刺すような殺意の応酬の代わりに今ではこうして冗談を言って笑いあうようになったのだから人の生とは何が起こるか分からないものだと思う。
そんな昔の事を思い返しつつ、目的地へと進む男を追いかけるように足を動かしながら周囲を見回す。
住み慣れた森もこうして夜に見る景色は普段とは異なっていて、面白い。
薄闇の中で動物達の鳴き声が遠くで響くのを聞きながら隣に居る男と共に軽やかに高低差のある苔生した地面を踏み締め木々の間を歩んでいくと、開けた場所にたどり着いた。
其処では風が穏やかに凪ぎ、当然のことだが人の気配は無い。
そしてその中央には巨大な木が立っていて、更にその上に広がる雲一つ無い空には何故か端の方が薄ぼんやりと欠けた大きな月が昇っていた。
この場所は男と俺が初めて出会った思い出の場所だ。
此処で殺し合い、話をして、そうして触れ合い、初めて口付けをした。
今でもこの場所は俺と男だけの気に入りの場所で、天気が良い日などは男と共に此処に来ては午睡を取る時もある。
しかし夜の内に来るのは久しぶりだと思いながら、中央の巨木に近づいていく男を追いかけるように歩んでいくと足元にある背の低い草むらがガサガサと音を立てる。
そして木の傍に立った男の隣に立つとずっと聞きたかった事を問う。


「それで……一体何が起きるっていうんだ」

「……もうそろそろだ」


男の言葉に聞くよりも待った方が早いと判断し、男の視線の先を辿る。
視線の先には先程と変わらず雲一つ無い空間に浮かぶ月があり、俺は男と同じようにその月に視線を向けた。
こうしてこの男と同じ月を隣り合い見る事になるなんて、数年前は想像すらしていなかったのにと感慨深い思考に浸りそうになる。
男と過ごしていく日々は常に仄かな温かさと新鮮さを持っていて俺に新たな記憶と経験を作ってくれる。
―――例え、この生活が突如として終わる日が来ても、『何も持たない』という孤独を抱えて死ぬ事は無いのだろうと思うほどに。


「………ん?」


そんな思いの中、月を見つめていると何かが変わっていくのに気がつき思わず、声を上げる。
其れは本当に僅かな変化で、俺は目を凝らし食い入るように月を見つめた。
煌々と輝いていた月の端から更に暗い影がじわじわと侵食し、月を隠していく。
そうして世界は一気に暗さを増し、何も見えなくなる。
その光景を息を詰め、ただジッと見つめているとゆっくりと現れた月が今度は赤銅色に染まっていく。
先程までの幻想的な世界とは打って変わって薄暗くなった世界に昇る赤い月は不吉にも思えたが、逆に俺には男の想いが伝わってくるような気がした。
俺は赤い月から視線を動かし、隣に居る男を見る。
すると俺の視線を感じたのか此方を見返してきた男に声を掛けた。


「……よく今日が月蝕だって知ってたな」

「昨日街に下りた際に、少し耳にしてな……」

「そうか」

「……」

「綺麗な月だ。……なぁ、軋間?」

「……嗚呼」

「しかも此処は見るのに最高の場所ときてる」


男の声に照れが混じっているのを理解しながら、再び月を見上げる。
わざわざこうやってこの場所に俺を連れて来た男に愛を感じてしまうのは仕方の無い事だろう。
昨日、何かで月蝕の情報を聞いた際に此処に俺を連れてくるのを思いついたであろう男の心境を考えるのは容易い。
普通の人間には恐れられるような鬼神も、俺にとってはただ、不器用で優しくも可愛らしい一人の男にしか見えなかった。


「……お前は、本当に俺の事が好きだよな」


不意に口をついて出た言葉に自分でも僅かに笑ってしまう。
直接に男に向かってそう言うのは余りにも恥ずかしくて、月を見つめたまま言ったその言葉は確かに男に届いたらしく隣に居る男が反応した気配を感じる。
一体どんな台詞が返ってくるかと黙ったままでいるといきなり隣に居る男が此方を背後から抱き締めてきた。
いきなりの男の行動に、何も言えずにいると着物越しでも分かるくらいの男の太い腕から繋がっている指先が俺の腹を撫でたのが分かる。
そして肩に男の髪が掛かり、耳元に男の吐息が触れる。


「………そうだな、その通りだ」

「……ッ……」


そのまま低く掠れた甘い声で真面目にそう言われ、心臓が一気に脈を速めた。
赤い月が昇った世界でこうして男に抱きしめられていると、いっその事、世界が崩壊しても構わないなどと考えてしまうのは可笑しいのだろうか。
俺は此方の腹を撫でている男の腕に手を伸ばし、抱えるようにする。
………このままこの腕の中で死んでも構わないと、一体後、何度俺は想えば気が済むのだろう。
微かに乱れた息を整える為に少しだけ深く息を吸ってから吐く。
言われてばかりでは、男としての矜持が廃る。
俺は触れていた手を離してから男の腕の中で体を動かし、男の方に向き直った。
月光に照らし出された男の顔は髪や瞳こそ赤みを宿しているものの、普段と変わらずに柔らかな光を宿している。


「言っておくが……俺はお前が俺を好きだというよりも、もっとお前の事が好きだからな」

「……」

「……きっとお前自身よりお前が好きだよ、軋間」

「……嗚呼、……」

「……」

「……では、オレがお前をお前自身より愛そう。……其れで相子だ」


少しだけ驚いたような表情をした男は直ぐに嬉しそうに微笑みそう言った。
本当に男の髪や瞳が赤い色に変わってしまったとしても、俺は変わらずに男を愛しく思えるだろう。
けれど其れを直接口にするのは憚られて、甘い言葉に摩り替えた。
俺の発言の真意を男が理解したかは分からなかったが、互いに自分の中にどうしても好きだと思えない部分があるのは事実で、其れすらも相手が受け入れてくれるのならばこれ以上に幸福な事は無い。


「七夜」

「……ん?」

「……接吻をしても構わないか……?」

「……っは……、そんな事、一々聞くなってずっと言ってるだろ」


真剣な表情での問いかけに笑ってそう返すと男が恥ずかしそうにしているのが見える。
互いの最も深い部分まで知っている癖に、時折こうして態々紳士な問いを投げてくる男はいじらしくて堪らなくなってしまう。
男の長い前髪を除けながら頬に手を伸ばして温かな其処を摩った。
目の前に居る男の隻眼を見つめるとそっと此方に顔を寄せてきた男と唇を触れ合わせる。
薄く乾いた唇は触れ合うだけで此方の体を温めてくれるのだ。
静かに唇を離すと、此方の首に巻かれたマフラーを直した男が此方の体を更に引き寄せてくる。


「寒くはないか」

「寒くはないさ、……こうして抱きしめられてるんだから」

「……其れもそうか」

「でも……もっと、強く抱きしめてくれても構わないぜ?」

「……そんな事を言われると抱き潰してしまいそうだ」

「……アンタになら、其れくらいされても良いけどな」

「……」


俺の言葉に黙り込んでしまった男に笑いかけてから、その唇に唇を寄せた。
その間にも微かに目を開けると赤い月は煌々とした光を宿し、俺と男を照らし出している。
意識を其方に向けていると不意にヌルついた感触が唇の上を這うのが分かった。
其の感触に目を閉じると舌が此方の口腔に入り込んでくる。
熱い舌が歯列を潜り、上顎を擽る感覚にゾクゾクとした痺れを覚えた。


「……っ、……ん……ぅ……」

「……は……」

「……ふぁ……」

「……七夜」


唇が離れ透明な橋が掛かるのを見ながら耳元で名前を囁かれ、体が熱くなる。
その声はやはり反則だ、と思いながら男を見つめ敢えて煽るように言葉を紡いだ。


「……此処で……シようか」

「……随分と魅力的な提案だが……流石に其れは出来ないな」

「……そうかい、ソイツは残念だ」


ふ、と体に点った熱を誤魔化すように笑みを見せると男が抱きしめていた腕を離してから俺の手を握った。
武骨な指先が此方の指と絡んでくる感覚は何時だって心地が良い。
男とこうして並びながら月見をするのも悪くは無いが、体に宿った熱を冷ましたいという想いが頭の中に満ちてしまう。
俺のそんな思考を読んだ様に男が囁く声が聞こえた。


「……帰るか」

「……ん……」


男の言葉に頷くと、握られた手に力を込める。
すると此方の手を引いた男が俺の額に軽く口付けてきた。
てっきり唇に口付けられるのだと思っている所に額に口付けられ、微かに驚き、伏せてしまった瞳を開くと赤い光に包まれた男が笑っている姿が見える。
その笑みに恥ずかしくなってしまって視線を逸らすと男の囁く声が聞こえた。


「………可愛いな、七夜」

「……可愛いとか……、そんな事一々言わなくて良いんだよ馬鹿……」

「……そう拗ねるな……本当に思った事を言っているだけなのだから」

「……拗ねてるんじゃないっての……」

「っふ……」

「……もう、……早く帰るぞ!」


堪えきれないように笑った男を引っ張るようにしながら、赤い光の中、来た道を今度は二人手を繋いで足早に帰ったのだった。



-FIN-






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