エニグマ




その日は目覚めた時から不思議な違和感のようなモノを覚えていた。
けれどその違和感は普段と変わらず寝衣から藤鼠色の着物に着替え、顔を洗い、薄くなった布団を畳み、そうして小さな格子窓から見える外を眺めながら朝の習慣となっている煙管に灯を入れた時には大方薄れていたのだ。
オレにとって日々というものは基本的に自然と流れていくモノに過ぎず、其れに対して何か感慨を覚えた事も無い。
だからこんな人も来ないような森の奥深くで一人隠れるように住んでいる。
そもそも『鬼』のオレが『人』の中になぞ紛れ込めるわけもない。
幾ら生きているという実感をあの時に得たのだとしても其れは遥か彼方のように感じられ、其れを紛らわせるように解脱を求める修験者のように修行の真似事をしてみたり、時折深酔いも出来ぬ酒をただ食らうのみであった。
季節は丁度桜が咲くような時期になり、この庵の中に居ても小さな窓から入り込む仄かな春の風が身を暖めてくる。
こんな日は桜を眺めながら酒を飲めば少しは歓喜を覚えられるだろうか。
ふ、と唇から紫煙を吐き出すと宙に昇った煙は静かに尾を引いて消えた。
このような考えに陥るなど己にしては珍しいと俯瞰からそのような事を考えてみる。
代わり映えの無い毎日に飽きたのかと言われれば、そうかもしれない。
けれどオレにとって鎖に繋がれる事無く、呼吸が出来るという事だけで眩しく感じられる筈だ。
オレは自分の中の異物感に知らぬ間に眉を顰める。
自分で律せ無い部分があるというのは随分と気持ちの悪いものだ。
再び煙管の吸い口に唇をつけると煙を吸い込み、吐き出す。
どうせ朝から酒を飲んだとしても文句を言われる相手も居ないのだから、今日は己の気分の赴くままに花見酒に洒落込もうとオレはそっと居間の中心にある囲炉裏の傍に座り込み、床に置いたままの煙管盆に灰を落とすと煙管を仕舞い込む。
そのまま酒は残っていただろうかとぼんやりと考えながら立ち上がり、土間造りの勝手場に繋がる障子戸を開けた。
僅かな板の間を踏み閉め、段差になっている場所に置いたままの草履を突っ掛けると食料を貯蔵する為に設えた木で出来た棚の一番下を開く。
日の当たらない其処には買い置きをしてあった酒瓶が何本か置いてあり、その内のどちらかと言えば上等な品を手に取る。
拘りも其処までは無いが、どうせならば良い物をこんな日は飲むべきだろうと愛用している朱塗りの杯も一つ取った。
ついでに朝餉を取っていないからと、棚に置いたままだった竹の葉に包んだ干し肉も一緒に拾い上げるとそのまま外に出る為、出入り口である木戸に手を掛ける。
扉を抜けた先には想像通りの澄んだ空と早朝である為に薄靄が広がっており、後ろ手で扉を閉めそのまま歩みだした。
此処一帯は何処を見渡しても当然のように木が隙間無く広がっているが、特に桜を楽しむには持って来いの場所があった。しかも庵から其処まで離れた場所では無い。
オレはゆったりとした足取りで庵周辺の低く刈ったばかりの草を踏み締め、その場所へと向かう。
普通の人間ならばこの森の地形に足を取られ、直ぐに迷ってしまうだろうが此処でもう長い事暮らしているオレにとってはたまに酒を買いに行く街中の方が余程理解出来ぬ土地だ。
だからそんな事を考えながらも其処までの時間も掛からず、桜の木が密集している地点にまで辿り着いた。


(……あれはなんだ?)


ただ、遠くからその場所に視線を向けると森の中では見かけぬような鮮烈な青色を発見し、静かに立ち止まる。
暫く其れを見つめているとその青色が人型をしている事に気がつき、微かに驚いた。
もしも人ならばこのような場所に居る事が可笑しい。
何よりもオレがその気配に気がつかず此処まで接近して漸く理解するなど、気配を消す事に長けたモノにしか出来ぬ技法だ。
僅かに警戒心を帯びた視線をその青色に向けていると、凛と咲き誇った桜を眺めているらしいソイツの周辺を取り巻くように風が吹いた。
その風に煽られるように揺れた木から桃色の花弁がその人型に振り落ちる。
そしてゆっくりと此方に振り向いたかと思うと、その瞳がオレを確かに射抜いた。
刹那、驚いたような顔をしたソイツは意味有り気な笑みを唇に浮かべ、オレとソイツの前には枚数は少なくなったものの桜の花びらが降り落ちていく。
………一瞬のこの出来事にオレは正直、呆気に取られていた。


「……おやおや、アンタも花見に来たのか?」


しかし此方に投げかけられた声に直ぐに意識を取り戻し、警戒しているのを少しも隠さないまま学生服を着た餓鬼を黙って見つめる。
相変わらず口端に薄く笑みを浮かべたままの餓鬼はオレの視線など気にも留めていないのか桜に再び視線を向けたかと思うと、その煙がかった黒髪が風に揺れるのを確認した。
今日は普段より風が強いようだ、とどうでも良い事を考えてから霞んだ脳内からこの餓鬼は確か七夜黄理の息子だった筈だと答えを導き出す。
以前一度だけ見たときにはただ言葉を発する事が出来る『獣』だと思っていたのだが、今では随分と纏っている雰囲気が異なっているように思えた。
前を向いたままの餓鬼に何を言うべきなのか分からずに居ると此方に顔を向けた餓鬼が不満げな表情をしてから囁く声が聞こえた。


「だんまりかよ。つまらないな、其れとも長く一人で居すぎて言葉すら発せ無いのか」

「………何故、貴様が此処に居る」

「なんだ、話せるんじゃあないか。結構結構」


からかうような餓鬼の言葉に眉を顰める。
殺気は感じない、しかしながら餓鬼はオレの問いに答える事は無かった。
一体何の用で此処まで来たのか分からないが、もしも荒らそうなどと考えているのならば受けて立とう。
しかし、餓鬼はオレの感情を読み取ったのか肩を竦めたかと思うとひっそりと微笑んだ。
他人から敵意や恐怖、猜疑以外の念を向けられるのは久々の事で僅かに息を止める。
そのまま動かずに居るとまるで霧のように音を立てず餓鬼が此方にふわりと近づいてきたかと思うとオレの持っていた酒瓶を指差した。


「アンタ、随分と良いものもってるな」

「……」

「……どうせ一人で花見酒でもしようとしてたんだろ?」

「お前には関係無いだろう」

「そう怖い顔するなって、だから俺みたいなのを呼ぶんだよ」

「……どういう意味だ?」


その言葉に理解が及ばず、問いかけると首を傾げた餓鬼が少し考えるような素振りをしたかと思うと一度瞬きをする。


「なんだ、気がついてなかったのか」

「……」

「俺はただの幻影だよ。……アンタの生み出した、ね」

「何故、オレがそのようなものを生み出す必要がある」

「そんな事、俺が分かる訳が無いだろう。でも、そうだな……」

「……なんだ」

「……寂しくでもなったんじゃないか?」


ふ、と癖のように笑ってそう言った餓鬼の言葉に目を細めた。
『寂しい』とはどのような感情なのだろうか、理解が及ばない。
ただ、より一層此方に近づいてきた餓鬼のそっと差し出された指先がオレの抱えている酒瓶を撫でたかと思うと色素の薄い瞳が光を受けて輝く睫の隙間から見上げてくる。
その瞳に映っている己の顔が何とも言えぬ表情をしている事に気が付きつつも、知らないフリをして低く呟いた。
惑わされている。こんな餓鬼の幻如きに。


「……杯は一つしかない」

「そんなの問題じゃないだろう、問題なのはアンタが俺に酒を分ける意思があるかどうかって事さ」

「……」

「沈黙してたら分からないぜ。教えてくれよ、軋間」


其処まで生意気にそう言った餓鬼は更に煽るようにオレの手の甲に触れた。
初めは冷たいと思ったその細い指先も確かに温い熱が宿っている。
本当に此れはオレが作り出した幻想なのか?という疑問が当然の如く立ち上るが、もしもこの餓鬼が本物だったとして、このような事をしてコイツに何の利益があるのだろうか。
オレのそんな逡巡を見抜いたのか筋を撫ぜるように指先を動かした餓鬼の唇が開かれるのと同時に再び風が吹き花弁が周囲に舞い散った。


「―――『獣』の俺にもちゃんと分かるように、さ」


含みを持たせたその言い方に微かな苛立ちを覚える。
けれどその想いとは裏腹に餓鬼の横を通り過ぎ、奥にある小さな岩に近づくと其処に座り込んだ。
オレの姿を振り返り見つめているらしい餓鬼を無視して、抱えていた酒瓶と持っていた杯を取り出すと一度ゆっくりと上下に振った酒瓶の蓋を開ける。
そして酒を杯に注ぎいれると先ほどと同じ場所に立ったままの餓鬼に視線を向けた。
そのまま初めの一杯を直ぐに飲み干すと再び酒を杯に注ぎいれる。
流石にオレの行為に驚いているのか静かにしている餓鬼にそのまま声を掛けた。


「何時まで其処に立っている。……早くしろ」

「……っふ、……ハハ……!」

「……なんだ」

「アンタって素直じゃないんだな」


オレの言葉に僅かに離れた場所で噴出してから腹を抱えて笑った餓鬼が目元をわざとらしく拭ったかと思うと音を立てずに近づいてくる。
当然のようにすぐ隣に座り込んだ餓鬼が手を伸ばしてくるので仕方なく酒の入った杯を渡してやると、餓鬼が薄い唇に杯をつけ其処に入った酒を飲む。
吐息を漏らした餓鬼がオレの方に顔を向けてきたかと思うと餓鬼の前髪が緩やかに動くのが見えた。


「これ、結構いい酒じゃないか。わざわざ買いに行ったのか?」

「そうだが」

「ふーん……アンタが街に居る姿って余り想像出来ないな」

「……オレも買出しくらいする」

「そりゃそうか。アンタ、妙に自活能力高そうに見えるからさ」


そんな他愛も無い会話を続けながらも酒を飲み干したらしい餓鬼が此方に杯を戻してくる。
杯を受け取ったオレに今度は間に置いてある酒瓶を取った餓鬼が杯に酒を注ぎいれてくるのを受けた。
誰かとこのように酒を酌み交わす事などオレの記憶の中には無い。
何よりも何故、オレを本来ならば殺そうとしてくる筈の餓鬼の影を隣に置いているのか。
未だに自身が醒めない夢の中に居るかのような気分に陥るが、だとしたら随分と奇怪な夢だ。


「……余計な事、考えてるだろう」


オレの心を読んでいるのかと思う発言をする餓鬼に答える事をしないまま、餓鬼に返杯された酒を飲む。
癖が余り無く、丁度いい塩梅の酒が喉を過ぎるのを直に感じながら空に広がる桜を見つめる。
すると隣に座ったままの餓鬼がくすくすと笑ったかと思うと囁く声が聞こえた。
餓鬼の低くも無く高くも無いが、何処か甘さを含んだ声音は耳元に自然に滑り込んでくる。


「当たり前だって顔してるな」

「……お前には分かるのか」

「分かるさ、何となくだけれどな。其れにアンタは思考自体は常識から其処まで外れていないようだし」

「オレにそのような事を言う奴は初めてだ」

「良い事じゃないか。……嬉しいだろう?」

「お前の言葉の意味が分からん」

「……意味……?」


初めて此方の言葉に不可解そうな返答をした餓鬼にオレは何か可笑しな事を言ったかと顔を向けた。
そんなオレの顔を暫しの間黙って見ていた餓鬼が複雑そうな顔をして、囁く。


「………嗚呼、そうか。アンタってほんの少し前の俺に似ているんだ」

「……何が言いたい」

「本当は何処かで分かっているけれど、自分の境遇やら性質やら色々考えて結局表面でしか分からないフリをしてる」

「…………」

「自分のようなモノが、其れこそ『人間』みたいに感情に左右されるのが許せないんだ。例えば、……苦痛とか、寂寥とか、歓喜とか……真に理解してしまえば一生それに付き纏われる事になる」


餓鬼の理解し難い忠告のような言葉に反論しようと口を開くが、返す言葉が出てこなかった。
馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまえれば良かっただろう。
くだらないと吐いて棄てる事も出来る筈だった。
けれど、其れをした時点でオレは餓鬼の言葉に『怒り』を持って接した事になる。


「俺の中でアンタは何処までも一族の仇だったんだが、認識が変わったよ。……なぁ、軋間」

「………なんだ」

「そうやって貝のように閉じ籠るのも悪くは無いが、此方は此方ですっきりするものだぜ?………勿論、面倒事も増えるが……其れもまた生きていく上での醍醐味ってものだろう。……例え、その生が偽りだろうが、望まれぬものだろうが……死ぬ間際まではこの世界に生きてしまっているんだから」

「………」

「………所詮、ただの亡霊の戯言だけどな」


其処までほぼ一気に言い切った餓鬼は自分の発言に恥ずかしさを覚えたのかいきなり座っていた岩から立ち上がったかと思うと、一歩踏み出し逃げようとしてしまう。
オレはそんな餓鬼に思わず縋るような声を掛けていた。
掠れた声は自分でも平静時とは異なっていると分かるが、どうしてなのかは皆目、理解出来なかった。


「其れを知ったとしてどうなる……?」

「………」

「オレにはこの場所しか、無いというのに」


すると立ち止まった餓鬼が此方を振り返ったかと思うと、何かを囁いたように見えたが余りにもそれは小さな声過ぎて聞き取る事が出来なかった。
そんなオレの不審げな顔を見たのか、今度は先程よりも大きな声音で餓鬼が答えを返してくる。
餓鬼の表情はオレから見ても何処か優しげに見え、自身でも可笑しいと思いながらもそのまま餓鬼の顔を見つめ続けた。


「………もしも本当にそう思うなら、また俺が現れるかもしれない」

「………」

「それはアンタの心掛け次第だけどな」


其処で一度、言葉を切った餓鬼の前にふわりと風に乗った花弁が散る。
そして髪を片手で掻きあげた餓鬼が不適な笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。


「其れに本当にアンタにはこの場所しかないのか?」

「……其れはどういう……」

「たまに街に下りてくるんだろう、アンタ」

「……」

「……アンタの前に俺の幻覚が見えたように、俺がアンタの幻覚を見るかもしれないって話さ」


餓鬼の言葉を脳内で反芻していると、答えを教えるつもりは無いのかその場に居た餓鬼がくるりと踵を返し歩みだしてしまう。
オレは慌てて立ち上がると数歩歩んでから餓鬼の背中に思わず声を掛けていた。
そうして此方の声に顔を向けた餓鬼を見ながら懐に入れてきていた干し肉を取り出す。


「待て」

「……なんだよ」

「……持っていけ」

「……は……」

「……」

「……っ……くく……」


半ば押し付けるように胸元に押し込めた其れに呆然としている餓鬼が包みを暫し見つめていたかと 思うと、再び急に笑い出したのに反応出来ずただ見つめる。
笑っていた餓鬼はオレのそんな表情の変化に気がついたのか、その笑いを静かに収めたかと思うと、その包みを至極大切そうに受け取った。


「ふふっ……そんな不機嫌そうな顔をするなって」

「何度も不意に笑い出されて何も思わぬ程には無感情ではない」

「悪かったよ。でも、アンタと居ると面白いと思うから笑うんだ。……勿論馬鹿にしている訳じゃないぜ?」

「……信用出来んな」

「そう言うなって!……さて、アンタからの贈り物か……此れはありがたく頂戴しておくよ」


そう言った餓鬼が微笑んだかと思うと今度こそ本当にくるりとその背を此方に向けてしまう。
段々と早朝から朝へと近づいていく森の中で、幻想だというその背中は妙に現実味を帯びて見えた。
オレは何かその背に声を掛けようかと脳内で考えるが、結局何も言葉は出てこない。
其れは今オレの中に存在している想いを自分でも言い表す事が難しいからだ。
そんな事を考えている内に、左手をゆるりと振った餓鬼の背を隠すように再び風が吹き、瞬きの間にその姿が見えなくなってしまう。
その一瞬の出来事にやはりこれは夢だったのかと思うが、確かに持ってきていた竹の包みと酒が無くなっている事に気がつき自然と唇が弧を描く。
頭上に広がる桃色の木々はさらに光を受け、絵画のように輝いている。
其れを見上げながら、岩にもう一度一人腰掛け、空になった杯に酒を注ぎいれた。
そうして唇に当てた杯から酒を飲むと、喉を落ちる味が先ほどよりも一層美味に感じられ、その感覚を舌先で味わうように静かに瞼を閉じた。



-FIN-






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