ヘリオトロープ




手に持った杯を傾け、中に入っている酒を流し込んだ。
喉を過ぎる酒の味にもはや舌も慣れ、自分が普段よりも酔っている事を改めて理解する。
狭い庵の中で心地よい浮遊感に侵されながら、俺は囲炉裏の反対側に居る男の飲み始める前と寸分も変わらない顔を見ていた。
こうして森の奥深くに一人暮らしている男の庵に訪れるようになって、幾らか経つ。
初めはそんなつもりでは無かったのだが、森に来ていた俺を男がたまたま見つけ声を掛けてきた所から何故かこのような馴れ合う関係が始まった。
別に殺し合いを忘れたわけではない。
けれど、初めて声を掛けてきた時の男の瞳は俺が思っていたよりも人間臭い柔らかな色を湛えていて、其れに動揺してしまった自分が居たのだ。
そんな事を思い返しながらも傍にあった酒瓶を掴み上げ、空になった杯に自ら酒を注ぎいれる。
……今日はどうにもしこたま酔いたい気分だ。


「……おい、呑みすぎではないのか」

「其れを言うならアンタだってそうだろう」


黙っていた男が唇を開いたかと思うとそう囁く。
こうやって二人で呑んでも其処までお互い話をする事は無い。
ただ黙って同じ空間で酒を呑むばかりで、まるで此れは夢なのでは無いのかと毎回思う位だ。
俺は此方を窺っている男を見ながらわざと見せ付けるように手に持った杯を唇に押し当て酒を呑む。
男の周辺には俺が呑んでいる以上の酒瓶が転がっており、其れが妙に苛立ちを加速させる。
だが、苛立ちをそのまま表す為にポケットに忍び込ませている『七ツ夜』を取り出して振り回したとしても素面ですら無いのだから掠りもしないだろう。
無意味な事をしても、やはり其れは無意味なままだというのは生れ落ちた時から何となくではあるが嫌でも理解していた。


「其れはそうだが……オレとお前では許容量が異なるだろう」

「そんなのは分かってる。ただ、今日は酔いたい気分なんだ」

「……」


男の瞳が今度は俺の機嫌を探っているのが分かる。
どうしてこんな風に動向を窺うのか、と内心毒付くがそんな己にまた自己嫌悪の念を覚えてしまう。
この苛立ちはただ自分の中にある葛藤を処理しきれない俺が男に此れ見よがしに八つ当たりしているだけだ。
再び酒瓶を掴み上げ、酒を杯に注ぐと其れを男から視線を逸らしつつ呑む。
くらくらと一際浮遊感が強くなったのを認識し、口端から零れる酒を親指で拭うと杯を畳の上に置き、そのまま体を横たえ、高くは無い庵の天井を見上げる。
まるで真っ暗な宙に一人投げ出されたようだと思っていると男が立ち上がり此方に近づいてくる足音が聞こえた。
そして隣に座ったらしい男が此方の顔を覗き込んでくる。


「……だから言っただろう、……呑み過ぎだ」


珍しく菖蒲色の着物を着た男の癖の強く長い前髪が此方に下りてくるのを見ながら、黒曜石のような瞳が燭台の灯りによって瞬くのを確認する。
その星のような光が余りにも今の俺には強すぎて、片手で顔を隠した。
すると掠れた男の声が耳に滑り込んでくる。


「大丈夫か?」

「……」

「……おい」

「……暑い」

「ん?」

「あつい」


男の声に心地よさを感じ、思わず分別を知らぬ餓鬼の様に我侭を言ってしまう。
何時もならばこんな風に考えもせず言葉を発する事など無い。
だが、其れもこれも何時も以上に酔っているからだと言い訳をしている自分が頭の中に居た。
自然に洩れる息を吐き出すと黙ったままの男がその手を伸ばし、此方の頬を撫でる。
かさついて熱い掌の感触が何度か繰り返し頬を擦る感覚に身を委ねていると掌を離した男が此方の首元に両手を伸ばしてきた。
そうして武骨な指先が俺の着ている学生服の金具を外し、ボタンを緩慢な動きで外してくる。
流石にその行動に驚きを覚え、男に視線を向けると含み笑いをしたように見える男が静かに囁いた。


「……暑いのだろう」

「……そう、だけど……」


その間も男の手は此方の衣服のボタンを丁寧に外し、更にその下にあるワイシャツのボタンを半分ほど外す。
外気に晒された鎖骨に感じる男の視線にぞくりとした痺れを感じる。
けれど其れを表に出すのはどうにか堪え、逆に男を見つめ返しつつ酔っ払いが甘えるように呟いた。


「……まだ、暑い……足先とか」

「……そうか」

「ん……」


俺の言葉に馬鹿みたいに真面目な顔をして頷いた男が俺の両足の間に移動して、片足を掴み上げたかと思うとそのままズボンの裾から中に手を忍び込ませ、足首に触れた。
そうして靴下に指を掛け、もう片手で踵を掴み、緩慢な動きで脱がせてくる。
己以外の人間に触れる事にまるで慣れていないのが分かるその手つきに確かに愛らしさを感じていた。
―――本当に、俺はどうしてしまったのだろう。
先ほどまでの苛立ちも、男の掌によって蕩かされる。
いっその事、このまま身も心も男に委ねてしまえればどれだけ幸福だろう。
そもそもよく考えれば、この男も悪いのだ。
初めはもっと冷淡で、適切な距離をお互いに保っていたのに、関係が続けば続くほど、男の瞳や行動に混じる優しさに混乱してしまう。
だから今日だってもう何度目か分からないが男から酒を呑もうと誘われて、いそいそとこんな山奥にまで一人手土産を携え来てしまったのだ。
そこまで考えて、不意に今、共に呑んでいた筈の男に自らの衣服を乱されている事を思い返して無性に恥ずかしくなる。
其れは酔って醜態を晒しているからというよりは、自ら進んでこうなるように仕向け、尚且、男が本当に此方の思惑通りにこちらに触れているという事実に胸が早鐘を打っているからだ。
一体何時から己はこんなにも浅ましくなってしまったのだろう。
もはや確実に赤くなっているであろう顔を隠す為、さり気なく片腕で顔を隠す。
その間にもう片方の靴下も脱がせた男が脱がせた靴下を畳に落としてから、此方の足を掴んだまま名前を呼んでくるのが嫌に耳に響いた。


「七夜」


その声に顔を隠していた腕を除けると、足の間から此方を覗き込んでくる男と視線が絡む。
別に男はこの体勢に疑問など抱いてもいないだろうし、きっと深く考える事も無いのだろう。
だが俺にとっては脳内の浮遊感が一気にじりじりと此方の全身を舐る炎となって酔いすらも醒ましてくる程度には意味を持ったものだった。
どうしてこんな事に意識を取られてしまうのだろうと思えども、こういう風になるように仕向けたのは俺自身だ。
男は所詮酔っ払った知り合いの餓鬼を介抱しているに過ぎない。
ならば、俺はどうにかしてこの焦燥感を誤魔化して、酔ったフリを意地でも続けなければならないだろう。


「……もう、……平気だ」

「……」

「軋間……?」


しかし俺が掠れている声で男の名を呼ぶと、足を掴んだままの男が一度俺の足に視線を向け、その瞳で射抜いてくる。
先ほど感じた星のような光とは異なる何処か妖しげな色を秘めたその瞳が一度瞬きをしたかと思うと、するりと俺の剥き出しになった足先を撫でた。
熱い体温の指先が足の指の腹を撫でる感覚に脳内がざらつく。
そのまま息を潜め男の指先の行方を見守っていると、今度は爪の先を撫でた男が微かにその首を傾げた。
ゆるりと動く束になった髪が男の顔に影を落とし、複雑な陰影を作り出している。
今までに見た事のない男の獣じみた気配に、腹の底にある何かが炙られ焼け焦げてしまいそうだ。
其れは本来自分が保有している殺意と、何か別の感情がごた混ぜになり触れられた足先は男の指紋ですら解かるくらいに敏感になっていた。


「……七夜」


再度、俺の名を呼んだ男の声は掠れていて異常な程に扇情的に聞こえる。
だがしかし、そのまま小さくため息を吐いた男は俺の足を離したかと思うと穏やかさを孕んだ声音で呟いた。


「……起きられるか?……起きられなければ布団まで連れて行くが」


先ほどまで瞳にあった獣の色は消え失せ、其処には我侭な餓鬼をあやす表情しか残っていない。
正直なところ、意気地無しと罵ってやりたくなったが、結局のところ俺の方がまどろっこしく小狡い方法を使っているのだから文句を言うのもお門違いだろう。
俺は其処まで考えて、ゆっくりと寝そべっていた畳から上半身を持ち上げる。
足の間に居る男を見返すと吐息を洩らした。
黙ったまま此方を見つめている男に、俺は小さく囁く。


「帰る」


暫しの沈黙の間、此方を探るように見つめていた男がぽつりと答えを返してきた。
周囲を照らし出すぼんやりとした灯りが庵の壁に影を作り出しているのを横目で確認しながら、男が呟く言葉を聞き漏らさないように耳を傾ける。


「外はもう暗いぞ。……そんな酔った状態で帰るのか」


そう言って俺の方に手を伸ばしてきた男の指先が頬を擦り、開いた襟元から首を撫でてくる。
こうやって俺をぐずぐずに甘やかして、深みに沈めてくる男はその事を自覚しているのだろうか。
もうどうなっても構わない、と半ば自棄になりながら首筋を撫でる男の腕に自身の手を這わせる。


「……だったら」

「……」

「…………帰りたくならないような気持ちにさせろよ」


其処まで言って、流石に真っ直ぐ言い過ぎたかと恥ずかしくなり顔を逸らす。
しかし首元に触れていた男の親指が唇に触れたかと思うと、顔を男の方に向けさせられる。
そのまま顔を寄せてきた男の唇が軽く触れてくるのを瞼を伏せて受け入れると間近で笑った男が囁いた。


「……全く、……本当に困った餓鬼だ」


困った風には見えない男も近づかなければ分からなかったが、微かに酒の匂いがする。
きっとこんな機会はもう二度と無いだろうと目の前に居る男の腕を更に撫で擦り、普段出さないような甘えた声を出す。
それもこれも全て酔っているのだからと脳内で言い訳をしながら。


「…………まだ、足りない」

「……」

「……もっと……っん……」


言葉の途中で再び顔を近づけてきた男が、此方の唇を塞いだ。
幾度も重ねられる軽い口付けに胸が苦しくなる。
しかし其れは息が苦しいというよりかは男に与えられる口付けによって何かが満たされているからだろう。


「は……」

「……此れで足りたか?」


唇を離した男が口端を上げて笑う。
ジリジリと瞳の中に消えていた筈の炎が灯っているのを確認して、男の髪を掴んで引き寄せると耳元で囁いた。


「……分かってる癖に聞くなよ……」

「……そうか。……オレもだ」

「軋間……」

「ん?」

「……帰りたくなくなった」

「……嗚呼」


本当に困った餓鬼だ、と同じように耳元で囁いた男が体を離したかと思うと不意に俺の体を抱き上げる。
ふわりと浮き上がった体に一瞬、驚いたが声を上げるまではしなかった。
そのまま問答無用で寝室の方に向かって歩いていく男の着物の襟元を縋るように掴んでから見上げる。


「……今更、嫌とは言わないだろう?」

「……言う訳無いだろ……寧ろアンタが怖気づかないかが心配だ」


寝室へと続く襖に手を掛けた男が俺を見てきたかと思うと、最後通牒と言わんばかりに呟く。
そんな男に向かって不敵に笑って見せると、複雑そうな顔をした男が襖を開けて薄暗い寝室へと入り込んだかと思うと聞こえないくらいの声音で言葉を紡いだ。


「お前は……散々煽ったのにまだ煽り足りないのか」

「……は……」

「……此れで多少手荒くなっても泣くんじゃないぞ」


もはや薄闇の中でも分かるくらいに燃え上がった男の瞳の奥にある炎と、低く甘い声に此れから先の事を考えて体が火照るのを感じる。
そうして布団の上に転がされた俺は、先に燭台の火を此方に持ってくると言って再度居間に戻った男の広い背中を黙ったまま見つめていた。



-FIN-






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