ニーズへッグの憂い


※メルカヴァが人を食べる描写・死体損壊描写あり


 ぐじゅり、と濡れた音と共に草むらに横たわる人間だったモノの腹部からどろりと臓腑が零れ落ちる。
人間の皮膚や脂肪など、獣である己の鋭い爪からしてみれば緩く固めた土を崩すように容易い。
 男が纏っていた筈の色彩乏しい衣服も真っ赤な鮮血に彩られ、本来ならば目を背けたくなる程の凄惨なその光景ももはや見慣れたモノとなっていた。
そもそも、この獣の身体に埋められた本能にこうして人として残された理性が立ち向かう事が不可能である事は随分と前から嫌と言うほど理解していた。

 何よりも引き裂かれた腹部から覗く艶めいた赤褐色の臓物は、酷く『美味そうな』物質として己の目に飛び込んでくる。
いっその事、この光景に理性を焼き切られてしまえば良かったと思えども、己の人としての精神は強靭らしく狂う事も出来ない。
 けれど止めるのはおろか、瞼のない瞳を逸らすことも出来ないのはいつしかこちらに諦観の念を植え付けるには十分だった。

 そんな思考を巡らせている間にも獣である己の化物めいた手は無遠慮にも裂いた腹部に手を捩じ込ませ、ぬるついた長い管のような物を嬉々として引き摺り出している。
消化器官の一部分であるその臓腑も、取り出して見れば驚くほど長く、こんなモノが人の矮小な肉体の中に収まっているという事実に感嘆の声さえ出そうになる。
 それに連動するように、獣である己の巨大な歯が規則正しく並んだ口元に笑みが浮かぶ。
余りにも見慣れ過ぎた所為で、人の理性を保ちながらも、普通は唾棄するような光景にも滑稽さを感じてしまうようになっていた。

 そうして獣は引き出したその臓腑をまるで恭しいものを掲げるように両手で持ち上げると、温度など感じない筈の両手から生暖かい『生』の気配が伝わってくるようだ。
今の我にしてみれば、他者の『死』は己の『生』になる。
 殺さねば生きられぬとは何たる残虐と思えども、生物は皆何かを殺して生きていると思えば少しは慰めになった。
だが、獣の己はそんな感傷とは無縁のようで、目の前に掲げた供物を口に含んだかと思うと、ぐちゃぐちゃと咀嚼を始める。
 口腔に広がる鉄臭さと『顕現』の奔流。
甘く芳しいその感覚は何度経験しても素晴らしく、自身の身体に力が満ちていくのが分かった。

(『虚無』とはなんとも難儀な生き物よ。人を殺さねば生きてさえいけぬとは……)

 そんな事を考えているとふと頭の片隅に何か引っかかるモノを感じて一体何だったかと思い返す。
余りに永くを生きていた所為で僅かに前の事でもよっぽど大切な事で無ければ忘れてしまう。
 しかし、その引っ掛かりはすぐに思い返せた。

 白い衣装がよく似合う、青く透き通る美しい髪と柔らかい光を宿した瞳の青年。
『虚無』である我を倒す為の組織である『聖盾』の人間であり、その割にはこちらを恐れる事もなく久方ぶりに我の名を呼んだ男。
――――ロンドレキア・ライト。
 その名を思い返した瞬間に滅多な事では止まらない獣の食事の手が一瞬だけ止まった。そういえば、少し前にロンドレキアにまた出会ったのだ。
 再度動き始めた獣を無視して、その時の事を思い返していた。


□ □ □


 揺らぎの少ない闇の中で、揺蕩うように夢と現のあいだでうつらうつらする。
 現実とは一枚、膜を隔てたようなこの『虚ろの夜』の境は『虚無』である己が人間に気が付かれないように活動するには最適だった。
何よりもここに居ればそこまで力を使わずとも済む。
 勿論、腹が減ればその身を現し、獲物を探すのだが出来る事ならば人の身を喰らうのは避けたい。
人を喰らう『虚無』としては可笑しな考えなのだとは思うが、なまじ意思疎通が出来てしまうが故に人としての理性が飢えよりも強い時は躊躇うのも当然のことだった。

 それに、森に隠れ住んでいる事を黙認すると言ったロンドレキアとの約束もある。
律儀に守る必要も無いのだが、最後までこちらの事を黙っていたロンドレキアを思い返すと裏切り行為を働くような気がして心苦しい。
 こんな事を思うなど『虚無』になってからは初めてで、久方ぶりの人間らしい感情の動きに面白ささえ感じている。
だからこそ既に飢えを感じてはいたものの、普段よりも我慢を重ねていた。

 そうしてその所為なのか、闇の中に起きた僅かなさざめきのような気配にすぐに気がついた。
しかもそのさざめきは次第に大きくなり、何者かが『顕現』を使用し戦闘しているのが分かる。
 だが、今は『虚ろの夜』では無いただの夕闇に過ぎない筈だった。

 だからだろう、この身に伝わる『顕現』はそこまで強くは無かったが、逆に言えば力を出しにくい通常の夜の中でこちら側に伝わる程の力を行使出来るという事はかなりの実力者だ。
何よりもその『顕現』の気配は何度も思い返していた人物の『顕現』によく似ていた。
 まさか、と思いながらも生温い闇を掻き分けるようにして常世へと這い出る。
もしも己の想像している人物だとしたら、何者かと交戦している状況はあまり良いとは言えないだろう。

 自身の身体を出来るだけ希薄に保ちながら、滑るように身を動かし、ざわめきの元へと急ぐ。
鬱蒼と茂る木々の合間を潜り抜け、漸く交戦している姿が遠くに見えるくらいまで近づくと瞼の閉じない眼をそちらに向けた。
するとそこにはやはり思い描いた通りの人物が複数の『虚無』と交戦中だった。
 冷たさももはや良く分からない体ではあるが、以前遭遇した時に想像した通りにその人物……ロンドレキアは美しい氷を作り出し周辺の温度はその氷によって低下しているようだ。
戦っている『虚無』は複数ではあるものの存在自体は矮小で、例え通常の夕闇の中で『顕現』が制限されていたとしてもロンドレキアが苦戦する事は無いだろう。
 一度殺気を帯びたロンドレキアと対峙した事もあり、半ば気楽に構えながら見ていたのだが何故かロンドレキアの動きはぎこちなく『虚無』に僅かながら押されていた。

(……あれの所為か)

 不審に思いさらに目を凝らして見てみると、ロンドレキアの背後に男が倒れているのが分かった。
意識を失っているのか男はピクリとも動かず草むらにうつ伏せで転がっている。
 男を庇いながらも飛びかかってくる『虚無』を躊躇いなく凍てつかせ、切り捨てるロンドレキアの姿を見ながら自身の口元に笑みが浮かぶのが分かった。
やはりこの男の『顕現』は殊更に美しい輝きを宿している。

 しかし見ている間にも疲労が溜まってきたのか発する『顕現』は弱まり、背後から飛び掛かろうとしてくる『虚無』に気がついていないようだ。
それを確認した瞬間、自分でもほぼ無意識に自身の獣の両腕に力を込めて長く伸ばすと、片手でロンドレキアの背中の衣服を掴んでこちらに引き寄せながら、もう片手で脆弱な『虚無』を切り裂く。
 だが切り裂く前にロンドレキアの腕をその『虚無』の放ったトゲが掠め、衣服と共に赤い鮮血がほんの僅かに飛んだ。

「メルカヴァか ?!」

『何を呆けている、ロンドレキアよ』

 こちらの懐に居るロンドレキアは驚いたのかそう我の名を呼ぶ。
その間にも未だににじりよろうとしてくる『虚無』共に理解させるように大きく一つ鳴くと、自分よりも強大な存在に獲物を取られた事を理解したのかズルズルと闇の中へ『虚無』は還っていった。
 傍観に徹するつもりだったというのに、まさか人成らざる我が人間を助けたという事に内心驚いていると、こちらの心情など知りもしないロンドレキアが我の方に向き直り、そっと顔を上げこちらを見ているのに気がつく。
ニコニコと微笑みながら見られているのも慣れておらず落ち着かない。

『……なんだ?』

 ついついそう意思を伝えてみると、笑みを浮かべていたロンドレキアが言葉を紡いだ。

「助かったよ。流石に『虚ろの夜』以外で人を庇いながら戦うのは難しいな」

『……我が来なければあの男共々食われていたかもしれぬな』

「そうだね。最近は『グルーミー』の発生率も上がっているし、『虚無』が増えたのもあって危ない場面が増えてきたからなぁ……」

 他愛のない会話の間にも、ロンドレキアの腕からは甘く芳しい『顕現』が零れては草むらに垂れる。
正直、飢えた体にはその赤は今すぐに食らい付きたい程に美味なモノに見えた。
 しかし、直接噛まれた訳では無いとはいえ、『顕現』を行使した後に『虚無』の攻撃を受けたのだから相当な体力の消耗だろうに未だにこの男は笑っていた。
額に浮いた汗を感じさせることのないロンドレキアに、此処で我が衝動のままに自分の欲望を出すのは自身の矜持に関わる。

『忘れているやもしれないが。その恐ろしい『虚無』の一体はまだ此処にいるぞ。ロンドレキアよ』

 だが、元の性格もあり、ついついロンドレキアを支えている腕を両肩を掴むように動かして口を大きく開けて頭に噛みつく素振りをしてみた。
助けたのは確かだが、先程の『虚無』などとは比べ物にならぬ程の『虚無』だというのを忘れられては困る。

「そういえばそうだったね、メルカヴァ。でも、貴方は僕を助けてくれたから、今日も貴方を見なかった事にして帰るよ」

 少しは怖がるかと思ったのだが、クスリと笑ったロンドレキアは思案した素振りを見せたかと思うと杖を持っていない方の手で肩を掴んでいる手をゆるくつままれた。
まさかのその行為に思わず手と顔を引っ込めると、ロンドレキアは慌てたように声をあげた。

「そんなに強くつねったつもりはなかったんだが、貴方の体は柔らかいから痛かったかい?」

『……いや……問題ない』

「そうか。……それにしても貴方はいつも僕をからかってばかりだ!この間の鞄の件は忘れていないんだからな」

 安堵の表情をしたと思えば、今度は前の事を思い出したのかわざとらしく膨れた顔をする。
この男は何とも奇っ怪で不思議な生き物だ。

『あれは荷物が重そうだから運んでやっただけだ。感謝されど非難される謂れはないぞ。ロンドレキア』

「うぅ……それにしたってやり方ってモノがあるだろう !もし『光輪』の誰かに見つかっていたなら貴方が危なかったんだぞ !」

 今もこうして我が消滅させられる可能性を考慮している。
 先程まで我と同じ存在である『虚無』を消し去っていたその体から発せられるこちらを気遣う台詞は酷く難解だ。
これほどまでに退屈さを感じないのは久方ぶりの事だった。

『なに、お前が右往左往する姿を見られるならそれも一興というものよ。……くっくっく……』

「全く……っ…… !?」

 からかわれた所為か苛立った様子のロンドレキアを見ながら腕から翼を生やして高く飛び上がると、両足でロンドレキアの肩を掴み体を地面から軽く持ち上げてみる。
細身な体ではあったが、足に伝わる感覚では適度に筋肉が付いているようだ。
だが我にとっては人ひとりを持ち上げて飛行する程度は問題ない。

 こちらの動きを予想していなかったのか慌てたように逃れようとするロンドレキアは杖を虚空にしまいこんで肩を掴んでいる足首を必死に掴んできて、僅かにくすぐったい。
首が可笑しくなるのではないかと思うくらいに上向いたロンドレキアの顔は必死そのもので思わず笑ってしまう。
 さらに腕に力を込めて約5メートルほどの高さまで飛び上がるともはやその顔は若干青ざめていた。

「何をしているんだメルカヴァ !危ないだろう !」

『暴れるな。本来ならばこのような事なぞしないのだがな。今のお前では其処で伸びている男を運べないであろう ?』

「だからってなんで急に僕を持ち上げるんだ !?」

『お前自身も体力を消耗している。……だが我は一度に一人しか運べぬ。故にお前を先に運ぶのが良いと思ったまでだ』

「しかし、それでは目立ちすぎるだろう !」

『この闇で、かように深い森の中に居る我々を誰が見つけられるというのだ。往復する時間も考えれば早々に済ませてしまいたい』

「そんな事言われても、この状況は……」

『恐ろしいならばしっかり捕まっていろ。……そのつもりは無くとも振り落としてしまう可能性もあるからな』

 く、と笑いながら言うと足首を掴んでいるロンドレキアの手の力が強まる。
口先ではそう言ったものの、高度を下げ、木々の中を滑るように進む。
 本当ならば更に高度を上げて素早く移動したいのだが、流石に意識ある相手を掴んでいる以上不必要な揺れは避けてやるべきだろう。
我の行動にもはや返答しても無駄だと悟ったのか、大人しくなったロンドレキアは弁解するかのように呟いた。

「本来なら僕も此処に立ち寄るつもりは無かったんだ。勿論、以前話した事は忘れてはいない……だから貴方が僕を助ける必要なんて無いんだぞ ?」

 そのように言ったロンドレキアの言葉に嘘は無いだろう。
何故なら我々は初めて出会った際に、暗黙のルールとして必要でなければ互いに近づかないという話をしていたのだから。
 そうしてもしも次に出会うとしたならば、その時は敵同士になるだろうとも話していた。
だからこそ我は『偽誕者』の気配を感じた際にいくら似ているとはいえ、ロンドレキアでは無いだろうと思っていた。

『おおかた、先ほどの男が怪しくて追ってきたのだろう ?わざわざ逢魔時を過ぎてこの森に入り込むなど噂を聞き付けた者か死にたがりしかいない』

「ご名答だよ。たまたま『聖盾』で調べていた不審人物によく似ていたから追いかけてきたんだ。顔をよく見たら違っていたみたいだけど……」

『どちらにせよ、我にしてみれば迷惑な話だ』

 ぐんぐんと進んでいく風景は人間の足ならば数時間の道程だろう。こんな中を男一人を追いかけやってくるなど、よくやるものだ。
無論、追いかけられていた男の方も相当な変わり者だ、と思う。
 人の居ない空間に馴染んでいる我が言うのも可笑しな事ではあったが、『獣』を飼っているために必要以上に餌が豊富な場所を避けるのは仕方がなかった。
そんな風に考えながら腕を動かしていると、不意に下に居るロンドレキアが我の足を掴む力を強め、呟いた。

「貴方の住処に再び入り込んでしまった事は、すまないと思っている」

 別に非難しているつもりは無かったのだが、そう聞こえただろうかと自分の発した言葉を思い返しているとこちらの返答を待たずにロンドレキアは更に言葉を紡ぐ。

「しかし、こんな事を言ったら誤解されるかもしれないが僕は僕の知っている貴方に『人殺し』になって欲しくなかったんだ」

『?……何を期待しているのか分からぬが、我は』

「分かっている !貴方がここまで行き長らえている事の意味も、その為に必要な犠牲も分かっている。でも、それは僕に出逢う前の話だろう ?」

 こちらの発言を掻き消すようにロンドレキアから発っされた言語の意味が理解し難く、返答に迷っているとそれを察したのか躊躇うように慎重に言葉を選んでいたらしいロンドレキアが再び呟いた。

「正直、最初に出会った時に言ったように僕は僕が認知していない時の『食事』に関してはどうしようもない事だと思っている。無論嫌悪感はあるけれど……でも僕は貴方の事を知ってしまった」

『……見逃した『虚無』によって被害が出るかも知れぬ罪悪感に堪えられなかっただけではないのか ?』

「違う !……そうじゃなくて、僕はただ……」

  己でも意地が悪いと思う言葉を返すと、強い口調で否定した後に黙りこんでしまったロンドレキアに向かって冗談じみた口調で話しかける。

『とりあえずロンドレキアよ、我の足をそう強く掴むのは止めろ。『虚無』とは言え、多少なりとも痛覚はあるのでな』

「えっ、あ、すまない」

『それからお前の言いたい事は分からなくは無いが、我を買い被り過ぎだ。『虚無』相手にその様な思考は持たない方が良い』

 僅かに手の力を緩めたロンドレキアが気落ちしているのが分かり、可笑しく思いながらも笑うことは堪えた。
実際にはそこまで痛みを感じていたわけではないのだが、こうも素直に言うことを聞かれると愉快にならない筈がなかった。

『だが、そのような事を言われたのは初めてだ。故に我は嬉しく思うぞ、ロンドレキアよ』

「メルカヴァ……っ、わぁ !?」

 感激したような声を出したロンドレキアをそのまま地面にほんの少しだけ手荒におろす。
人間の足で数時間だとしても、我からすればほんの僅かの時間だ。
 だから街まで運んでやってもよかったのだが、流石に人目のある場所までこのまま運ぶのは互いにとってまずいだろうと森の入り口近くで下ろしたのだった。
いきなり下ろされた事に驚いたらしいが、 そこはきちんと着地したロンドレキアは此方を見上げて、最初に会った時のように膨れた顔をしている。

「こっちが感激している間にいきなり下ろすなんて酷いぞ !」

『我としては感謝されこそすれど、非難される謂れは無いぞ』

「それはそうだが……」

 意地悪く笑いながらそう言ってみると、膨れた顔をしていたロンドレキアがすぐにその表情を変え、改まった様子になる。

「確かに貴方には助けられた、感謝するよ。メルカヴァ。僕は『聖盾』に連絡を入れておくから彼の事を頼む」

 澄んだ空色をした真っ直ぐな瞳が迷うことなく我を見つめ、断る事を許さない。
信用しているぞ、と 言外に訴えられれば相手の希望通りの行動をしない訳にはいかなかった。
 自身の両手を再度広げ、ゆるりと動かすと巨躯の割には軽い肉体がふわりと浮き上がる。
そうして此方を見上げてくるロンドレキアに向かって声をかける。

『全く今日は厄日だな。腹が減っているというのに二回もタダ働きとは』

「それは確かに申し訳ないな。何かお礼が出来れば良いけれど…… 」

『ならばその滴る血でも頂こうか。……と言いたいところだが、それは止めておこう』

「別に貴方がもどってきたら少しくらいなら構わないぞ」

『冗談だ。我が戻る前には連絡をつけておくんだな。先ほども言ったが、街中まで送る気は無いぞ』

 冗談半分にそう言った此方に本気で礼をしようと思ったらしいロンドレキアにそう言って薄く笑う。
こちらとしては素晴らしい提案だが、腹の減っている今の状況では血だけで済むとは思えなかった。
 だが、それを悟られないように再び腕についた翼を広げて空気を掻くように腕を動かし、倒れている男の元へと戻る。
やはり人を一人抱えていない身体は軽く、元の場所に到着する時間は半分以下で済んだ。

(もしも我が此奴を持っていかなければ、あの男はどのような顔をするのだろう)

 頭の中に過ぎった思考は『虚無』としては当然の事だろう。
そんな我の思いなど知る由も無く、草むらに落ちている男はまだ気が付いていないのかピクリとも動かない。
 腹が減っているのは確かだ。そうして目の前にはお誂え向きに人が倒れている。
この男を喰らえば暫くは餌を探さなくても済むくらいには腹が満ちるだろう。
 しかしそんな『虚無』らしい想像が浮かんだのも一瞬で、男の腰辺りを両脚でしっかりと掴むとロンドレキアの元へとトンボ返りをした。


□ □ □


(この男も本当に愚かな人間であったな)

 もはや殆ど人の形を成していない男を見ながら、回想していた意識を現世へと戻す。
結局ロンドレキアの元に男を連れていった後はどうなったのか分からなかったが、本部と連絡が取れたと言っていたので無事に家へと帰れたのだろう。
 しかしこの男はもう一度この森の中にやってきたのだ。男は自殺志願者だった。
何故それが分かったのかと言えば、ご丁寧に今度は縄を携え、呪詛のように自分を救った相手の文句を言っていたからだ。
 暗闇に居るのは森の動物達だけではない。
――――この森には恐ろしい化け物が住んでいる。

(我の姿を見た瞬間の恐怖に彩られた表情。死にたいという願いはその程度の想いだったか)

 一度ならば、我も助けただろう。けれど二度目はない。
その上、男は自身の命を懸けて救ってくれた筈のロンドレキアの事を罵倒していた。
 獣の肉体が餓えのあまりに男に襲い掛かった瞬間、その身に内包された我の自我もまた、男を殺すことを望んだのだ。

 『人殺し』でいて欲しくないと言ったロンドレキアの想いを忘れてしまったわけではない。けれどもう遅いのは分かっていた。
男の目の前に現れた時、憎しみを感じるよりも先に、餓えと共にこの男を目の前から排除したいという一種の防衛本能が働いたのだ。
そうしてこの身は余りにも人の命を狩る事に慣れ過ぎているからこそ、いとも容易く男の首を噛み千切っていた。
 噴き出した鮮血と、絶望に染まった顔もそのままに地面に崩れ落ちた男に何の感慨も抱かない。
死んだ時点で獣にとってはただの餌に過ぎなかった。

 だから、今も獣の肉体が無邪気さを宿した動きで男の頭骨に手を伸ばし、鋭い爪先で眼窩をなぞるように動いたかと思うと男の見開かれた瞼を切り裂いていく。
皮膚が爪で裂かれる音と一緒に、爪で出来た傷跡からは赤い血が流れ落ち、化粧のように男の顔を覆った。
 そして、目の幅がこめかみと眉間辺りにまで広がった男の眼窩に収まっていた筈の眼球が支えられていた力を失ったのか、押し出されるように外へと飛び出してくる。
赤い糸を束ねたような視神経が未だに繋がったままの男の眼球を潰さぬように二本の指で挟んで持ち上げると、細く繋がっていた視神経はちぎれ、丸い眼球だけが獣の手の中に落ちる。

 片目だけぽっかりと空洞になった男の顔はいささか珍妙で、小さな笑いさえ洩れた。
これでは快楽殺人者ではないか。と思う己も居るにはいたが、所詮は刹那の逡巡に過ぎない。
 そんな思いを知ってか知らずか獣の肉体は手に収まった眼球を頭上に輝く月明かりに翳す。
生気を失い、光さえも吸い込むような仄暗いその虹彩の色は薄い緑で、暗い世界では角度によっては水色に見えた。
 途端に自然と笑いが深くなり、獣はその胸を反らして大きく一度吼えた。
その声に驚いたのか眠っていたらしい鳥たちは騒めいたのちに、自らの姿を隠すように世界は静寂を取り戻す。

(水色の虹彩。……なんという皮肉な諧謔だろうか !)

 我の知っている限り、人間で水色の虹彩を有しているものはただ一人だ。
そしてそれに気が付いた時に己の中に確かな『悦び』を得た。
 あの生真面目で何処か憎めない酷く愛嬌のある男。もしもこの眼球があの男のモノだったら?という仮定が頭の中を巡った。
自分はもう少しまともな倫理観を残しているつもりであったが、間違いだった。
 ロンドレキアよ、我はお前を喰らいたくて仕方がないようだ。
それこそ余すことなく、髪の毛の一筋さえもこの肉体の糧としてしまいたい。

(次に会った時はあの男の『顕現』を間近で見られるだろうか)

 空気さえも凍てつかせるような強い『顕現』をもった『虚無』を打ち倒す為に設立された組織である『聖盾』の男。
次は互いに存分に力を交わせ、戦う事だろう。
いつか必ず訪れるその日までは我はこの密やかな森の中で大人しく待ち続けるのだ。
 この町はどこか不穏な気配を宿しているのだから、恐らく自らが戦いを求めなくとも影で蠢くモノ達が我を求めるだろう。
その前に獣の飢えが限界を迎える可能性も十分にあり得るが。

『ロンドレキア。お前とまた会う日が楽しみだ』

 そう呟いてから、手の中にある眼球を口の中に放りこむと飴玉のように数秒転がしてから奥歯でかみ砕く。
途端にプツリ、と破れた眼球からは濃厚な『生』を感じ取り、心地良さを感じる。
 あの男がこんな我の姿を見たならば、一体どんな顔をするのだろうか。絶望か、嫌悪か、はたまた諦めなのか。
今の我には見当もつかないが、少なくとも良い顔をされる筈はないだろう。

 だが、寧ろそれが正しいのだと思う。そうでなければ、我はきっとあの男を欲望のままに嬲り殺してしまう。
それを回避するためにはロンドレキアが本気で我を殺そうとしなければならないのだから。
 あの矮小な『虚無』共に向けたのと同じように容赦の無い鋭くも美しい殺意。それを今度は見てみたい。
そうしてこの忌諱すべき『人殺し』に成り果てた我をその『顕現』で殺してみて欲しいものだ。
 そんな未来に思いを馳せながら、未だに覚え続けている餓えを解消する為に残った肉を片付けようと再び地面に転がっている男の死体へと向き直った。


-FIN-





戻る