「ほら」
「……」
ぽい、と新聞を読んでいた私の目の前にあるテーブルの上に小さな箱が投げられる。
それを投げた人物を眼鏡を掛けなおしながら見遣ると妙に不服そうな顔をした後、さっさと近くにあるソファーにまで行って座ってしまった。
一体なんだというのか。この餓鬼の思考は相変わらず読めない所がある。
そんな事を内心思いながら読んでいた新聞を折りたたみ横に退けた後、そのシックな色合いの包み紙に包まれワインレッドのリボンの掛けられた物を開いてみる。
見た所何かのプレゼントのようであったが、餓鬼が私にこのような物を贈るなど初めての事であったし、また、その理由が分からなかった。
「…………」
リボンを解き、箱を開けると途端に甘い香りが鼻をつく。
様々な形のものが小さな仕切りの中で主張しているのを見て、再び驚いてしまう。
何故チョコレイトなど、と一瞬思考の波に陥るが、すぐにその答えは出た。
そうして私はそんな可愛らしい行いを珍しくしてきた餓鬼の方に行こうと座っていた椅子から立ち上がり未だ一言も発しない餓鬼の傍へと寄る。
「……」
「随分と可愛らしい事をするようになったでは無いか」
「いらないなら返せよ」
「何もいらないなどとは言っていないだろう?」
そう言いながら餓鬼の横に座ると、餓鬼は居心地悪そうに此方との距離を離してくる。
しかし狭いソファーで距離など対して取れるわけもなく私は一緒に持ってきた箱をソファーの前にある硝子製のテーブルの上にこれ見よがしに置いてみた。
隣に座る餓鬼は気まずそうにしつつもその顔に映る不安げな匂いが隠しきれていなかった。
……こういう所を愛しいと思うようになったのは何時からだっただろうか。
「……」
「七夜」
「……なんだ」
「これはバレンタインか?」
「一応……バレンタインと……」
「?」
「……誕生日、だろ」
「……あぁ」
そう言われて今日が自分の誕生日だという事を思い出す。
長きに渡って人としての生活を失っていた上に、誰かとこのような時間を過ごすことも無かった為か自分の生まれた日などすっかり忘れてしまっていた。
しかしその日を言った覚えがなかったのだが、一体何処で知ったのだろう。
だがそれは余り問題ではなかった。
何故ならなんでもない風を装いながらも、顔を背けている子供の耳は確かに赤みを帯びているのだから。
「……」
「……わざわざ余り甘くないものを買ったのだな」
「……洋酒入りとかならアンタだって食えるだろ」
「……そうだな、……しかし吸血鬼にバレンタインとは……中々良い趣味をしている」
「馬鹿にしてんのか」
「……いや?……褒めている」
そう言いながら箱に入ったチョコレイトの一つを摘み上げ、口に入れる。
口の中に広がる甘さはけしてくどくなく、その中に仕込まれたシェリー酒の味わいも微かにほろ苦く心地良い。
それを一人味わっていると、子供が此方を見ているのに気がついた。
「……」
「如何した」
「…………別に……」
「……そうか」
ぷいと再びそっぽを向いてしまった子供の考えが読めない程私は阿呆では無い。
恐らく味がどうだったのかを聞きたかったのだろうが、素直では無いこの子供がそのような事を言える筈も無いのだろう。
なので少しからかってみる事にする。
「……七夜」
「……」
「此方を向け」
「…………」
「…………」
その声に子供は嫌々ながら此方を向く。
私はその頬に手を当て、目の前の子供に注ぎ込むように囁いた。
敢えて甘く、そうして低く。
「……これはバレンタイン、そう言ったな」
「……え、あぁ……」
「今、認めたな、七夜」
「……は……?」
上手く理解が及んでいない様子の子供に私はそっと笑う。
そんな私の笑みが不吉な笑みに映ったのか子供が逃げようと体を引く。
だが私は逃がすまいと空いていた片手を子供に伸ばし捕まえる。
「では願いを一つ叶えて貰おうか」
「…………はぁ?」
「……だから、願いを叶えて貰おうと言っている」
「……何故だよ」
「昨日は私の誕生日だ。しかしこのチョコレイトはバレンタイン用……足りないではないか」
「足りない?」
きょとんとした顔をして、首を傾げた子供に教えるように一から説明してやる。
勿論子供の腕は掴んだままだ。
「……チョコレイトはバレンタイン用、だったな」
「……あぁ」
「ならば誕生日の祝いが無いではないか」
「…………」
「何、難しい事は言わん、安心しろ」
「お前そこまで卑しい男だったのか……」
そう言われると不愉快ではあるが、素直になれない餓鬼を素直にさせつつ自分も愉しむにはこれが一番手っ取り早い方法なのだから致し方無いだろう。
なので呆れたようにそう呟いた餓鬼を無視して、願い事を伝える。
「これを食べさせてくれ」
「…………」
顎をしゃくって先ほどの箱を示す。
其処には先ほど食べたチョコレイトと同じ大きさで、少し種類の違う物が何個か収まっていた。
もう此処まで言えば分かるのだろう。子供の顔に僅かな焦りと苛立ちが見える。
ここで逃げられるわけが無いだろうに。
くす、と笑って顔を近づける。
「……さて、……早くして貰おうか」
「……やだ」
「嫌だ?……ほう?」
「…………」
気まずそうにしている子供はもう逃げられない事を悟り、一度ため息を吐いた後、ジッと此方を見遣ってくる。
その目元はうっすらとした赤みを帯び、それがまた此方を煽った。
私は子供のテーブルに近い方の手を開放してやり、私の望みを叶えられるようにしてやる。
子供は逡巡した素振りを見せてはいたが、意を決したのかそっとその手を箱に伸ばす。
そうしてその箱の中に入っているチョコレイトの一つを指先で掴み、そっと此方に差し出してくる。
子供の腕を再び掴み、逃がさないようにしてその細い指先に摘まれている一粒を其処からまるで啄ばむ様に食む。
「……っぅ……」
そしてそのまま絡め取るようにその細い指先をぬるりと口の中に含んだ。
ビク、と体を震わせた餓鬼は私の唇から指を抜こうとしているようだが、そ知らぬフリをして私は子供の指と甘さをしっかりと堪能した後、一度指を唇から抜いてやる。
「……くそ……」
「……七夜」
「は、……あ……!?」
呆けている子供の地面についている両足を掬い上げ、そのままソファーの上に寝かせる。
私はそのままギシリと音を立てながら子供の上に覆いかぶさった。
流石に大きめなソファーであっても私と子供の体を受け止めるには少し狭い。
だがその密着感が逆に此方にとっても良いものだと思う。
「……おい」
「なんだ」
「……だから嫌だったんだよ……どうせこうなるって分かってたから」
「いいでは無いか。安心しろ、……今日は何時もよりももっと甘く蕩けるような快楽を与えてやろう」
「……」
「……嬉しいだろう?」
「……アンタのその自信が何処から湧いてくるのか……教えていただきたいものだね」
忌々しそうにそう言ってソファーの背もたれの方に顔を背けた子供に対し、私はソファーについていた片手を離してその耳辺りを擽るように撫でる。
自信、というには少しばかり違う。
これは信頼、そうして、真実でありまた、確かな愛情である。
自分の事を迷い無く全て受け取り消化してくれるのだと分かっているからこそ、私がこのような軽口を叩くのだと子供は理解していないのだ。
それを伝える気は無いが、きっと心の何処かでは分かっているのだろう。
だからこそ子供の横顔には微かではあるが満足げな表情が映っている。
そんな子供の耳元で自分でも驚くくらいに優しげな声で囁いた。
「お前にだから、このような事を言えるのだ……分かるだろう?」
「……ッ」
「……っふ……どうした、……顔が林檎のようだぞ」
「……うるさいな……もう……早くしろよ」
「……」
もはや自分の顔が真っ赤なのが分かるのか、それを隠すかのように子供が腕を上げて自分の顔を隠す。
だがその腕をするりと奪い取り、その薄い唇に舌を這わせる。
甘さを感じるその接吻は先ほどのチョコレイトの所為か、はたまた、目を伏せて私の下で耐えるようにしている子供の甘さか。それは分からなかった。
「……っん、っ……あ……」
「……ふ……」
「…………はぁ……」
「……くく」
けれどそれはどうでも良かった。
何故ならこの腕の中で悶える子供の愛らしさを堪能する事で、一瞬の接吻などとは比べ物にならないくらいの甘さと恍惚感を味わえる事を知っているのだから。
そんな事を思いながら、私はさっさとそれを貪ってやろうと子供の服に手をかける。
だがそれは思い出したかのような子供の動きで制されてしまった。
「おい」
「……溶けちまう……」
「……?」
「チョコ……」
「……ああ」
その動きに不機嫌な声音で対応すると、子供が蕩けたような視線でテーブルの上に置かれた箱を見た。
確かにこのまま此処で始めてしまって一回で終わるつもりはない。
どうせ此処で一回しただけでは足りずにベッドに移動するだろう。
ならば箱に入ったものはきちんと仕舞っておかねばならない。
こういう所はしっかりとしている……そう思ったが、それをすぐに考え直した。
それだけあの箱に入った子供の気持ちは大きいのだろう。
「……」
「……分かった」
「……」
「少し待っていろ」
その言葉の意味を理解したのか子供は従順な子猫のように頷いてソファーに横たわったままだ。
私はその上から退き、テーブルの上にある箱を取り上げ台所に向かおうとする。
しかしその前に此方を見上げている子供の髪をそっと撫でてみた。
―――戻ってきた時には覚悟しろと半ば伝えるように。
そんな私の心の声を読み取ったのか、僅かに眉を顰めた子供にどうにも愉快な気持ちにさせられて、含み笑いをしながら台所の方へと歩を進めた。
-FIN-
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