真夜中の諧謔劇




いっそ溶けてしまうように、自我が崩壊すれば良いのだ。
そうならば、狂気とはそこまで苦痛を伴う物では無くなる。
自分の気が狂うのが恐れだと思うのならばそれはきっと結果が怖いのではない。
自分の容量を越え、何時までも膨張し続ける『闇』に飲み込まれて行くその過程こそが真に恐怖を与えるのだろう。
いつしか手を濡らす血はどこまでも深く、清々しいほどにこの身を蝕み、血脈を巡る。
本当はこの体を満たす血そのものが、相対する者の死を願う穢れたものであると理解したが、それは後の祭。
手足で相手の腸(はらわた)を苛み、死していく相手の苦悶の表情に一種の悦楽を感じはじめていた自分には最早関係のない事柄となっていた。
そもそも、理解した所で血筋には抗えない。
また、欲しいものを得られなければ結果としては何時しか狂ってしまうのだから、どうせなら抗わずに快楽を受け入れてしまった方が良いのだと思う。
だから、今日も心は何処までも空虚で、手を濡らす赤だけを認知する目を嘲笑いながら夜の街を歩く。




(あぁ、全部真っ黒でつまらない。獲物すら、見えない)



本当は例え夜に包まれているとは言え、暮らしのある街。
街灯の明かりは至る所に設置されており実際は暗殺に長けた視力も相俟ってはっきりと認識出来る筈だ。
しかし、頭が薄ぼんやりとしていて考えが纏まらない。
出来るだけ人目につかないように影の中を歩いていき、気味が悪く一般人ならば誰も立ち入らないような路地裏に入る。
そうしてまさに外界と隔離されたような路地裏の奥に座り込んだ。
そのまま体育座りで背を後ろのコンクリートで出来た壁に預ける。
獲物が現れたなら即座に捌いてやろうと手にしていた愛刀の刃を目の前に持ってきてみるものの、反射する光がないからかそれは味気なくそこにあるだけ。
今の自分には、何の影響も与えてくれないだろうと感じ学ランのポケットにそっとしまい込んだ。
今日の自分は何かが可笑しい。
暗殺者が、物事について考え込むなど愚の骨頂。
暗殺者たるもの任務に真っ当にあたり、主がいるならばそれの為に動く駒となり、また何の痕跡も残してはならない。
そんな存在でなければならない自分がさながら哲学者のように『狂気』について考え込むなどあってはならないというのに。




(………例えこんな風に思考したとて、何一つ変わるものなどないというのに)



酷く、虚しい。
何かを破壊して、得た快感はすぐに手から零れおちていく。
記憶の片隅にも残ってはいないが、一体自分の手によって幾つの命が潰えたのだろう。
何時もはそのような事を考えもしないが、一度頭の中に浮かび上がるとこびり付いたように離れない。
しかもこの意識自体が真実かと言われてしまえばそうでもないのだ。
所詮は紛い物、誰も自分を、『七夜志貴』という人格を見ているわけではない。
自分は、『遠野志貴』という存在の上になりたっており、またそれを周りは当然として受け入れている。
例えそうではないと思っている人間がいるとしても、同じ人物が二人いたなら、より自分に近く、深く理解している方に重ねてもう片方を見るに違いない。
少なくとも自分はそうだと思う。
遂に情けなくなってきて姿を隠すように頭を膝に埋める。




「………は、」



思わず唇からため息と自嘲の念が篭った笑いが洩れた。
もう笑いしか出てこない事にすら、笑える。
そう思いつつも暫くその状態で固まり、頭を少しでもはっきりさせようと目を瞑った。
するとかなり先からだが明確な敵の気配を感じとる。
一般人とは違い、個だが数百もの歪な気配……思い当たる人物は一人しか居なかった。
なんでこんな時に、と思うが立ち上がらないわけにもいかない。
しかしそうは思えども、体が鉛のように重く、動く事が出来ないため、先ほどポケットにしまい込んだ愛刀をのろのろと取り出し、目を開く。
その間にも気配は地面を伝い、確実にこちらに近づいてくる。
そしてそっと目を上げると視認出来る程度の距離に黒いコートを纏った男が立っていた。
銀色の短髪が位置を変え始めた月によってこちらに射し込むようになった光を反射し、うっすらと輝いている。
それをただ見つめているとその男は皮肉っぽく笑ってこちらをねめつけてきた。




「なんだ、その酷い顔は……立ちあがる気すらないまま終わるつもりか?」

「五月蝿い………なんでこんなときに来るんだ……ネロ・カオス…………」

「私にお前の状態が分かるわけがないだろう……そもそも関係もないがな」

「………殺し合いなら、別の日にしてくれ……今日は間が悪過ぎる」

「……落ちきった貴様を、甚振るように殺すのもまた乙なものだが……」

「………分からなくもないがな」

「………だろう?」

「………というか相手を間違えているんじゃないか?」

「………む?貴様は貴様だろう……私を殺したのだから」

「……………それは、『遠野志貴』だろう」



そういってゆるりと目を伏せる。
この上なく不愉快だった。なんでこんなに間が悪いのだろう。
コイツもまた、『遠野志貴』に俺を重ねている。
だったら最初からアイツのところに行けば良いものを。
そんな風に思っていると急に髪をひっぱられ、視界が開ける。
余りにも急過ぎて理解が追いつかず、非難する暇もないうちに目を合わされ探るように見つめられた。




「…………」

「………痛いんだが……何をしている……?」

「………苛々する人間だな……本当にこのまま捻り潰してやろうか」

「………だったらそうすればいい……抵抗もしないさ」

「……、もう少し骨があるのかと思っていたが……所詮はその程度か」

「……煽るなら、もう少しマシな文句にするか、今日は退散しろよ……つまらない話はしたくないんだ」

「……それではお前は話もしないし、抵抗する気も無いのか?」

「………何がいいたい」

「いや?……それではただの人形と変わらんと思ってな」

「…………実際、そうだろ」

「………ふむ」



そこまで聞き届けると不躾に髪をひっぱっていた手を離し、男は立ちあがる。
今日は帰るらしい。
まさか本当に帰るなどとは思っていなかったために、自然と目で追ってしまう。
すると一度頭を撫でられ、男はそのまま後ろを向いて一言呟いた。




「……人形とは、悩むことをしないただの型を指すのではなかったか?ならば何故、貴様を人形と銘打てるのだろうな」



そうして男は再び闇に溶けるように消えていった。
その一部始終を見たまま、言葉の意味を考えてみる。
すると何故か救われたような気分になり、俺は一人隙間から顔を覗かせた月光に照らし出されていた。



-fin-




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