蕩かすが如く




死を、恐れるかと聞かれれば、俺は否だと答えるだろう。
けれど奴はきっとそれを沈黙の内に肯定する。
全てを飲み込み尽くして、この世界の根源を探るために狂った男は、死を克服しようと足掻く。
最初の内はそれを愚かだと嘲笑った。
生きる事に何があるのだろうと。
この世界の源を例え理解したとしても、一体それがなんなのかと。
しかし男はそれをただただ必死に追い求めてきたのだ。
その感情は今まで一度たりとも分かり得た事は無いが、男の信念の強さは理解した。
だからこそ俺は一度男に問うた事がある。
お前は何故そうまでして生に固執するのか、と。
すると男は存外な顔をした後に、俺に憐憫の眼差しを向けてきてこう呟いたのだ。
可哀想な奴だ、と。
無論俺は、反駁しそうになったがその前に男に制されてしまった。
男曰く、生に固執しているのでは無く、生に固執させる程に渇望する何か、があるらしい。
だからそれを持たぬ人間は、愚かなのだと。
その上、それを感じる事無く、苦しいとも辛いとも思わないお前は可哀想なのだ、と言葉を綴った男はそれきり何処かに消えてしまった。
別に急に奴が消えるのは何時もの事だ。
なので俺は奴の居ない間、奴の部屋で考え続けている。
この事自体、かなり苛立つことなのだが他に行く宛ても無い。
それに一度上げた生活水準を下げる事は人間には中々出来ないのだから。



(………生に固執させるほどの何か、か)


そもそも幻であった筈の己が何の因果かここに生きているのがまず不思議な事なのだ。
俺は俺を呼ぶものを殺す為だけの存在だし、それ以上の意味など持たないはずだったのにのうのうと生きて、 尚且つ憎たらしい男に懸想している。
相手も己を一度殺した人間をいとも容易く掻き抱くのだから正気の沙汰とは思えないが、どうせ元々狂っているのだから 問題ないのだろう。
何よりも俺はこうして人心地のついた生活を出来るのは、有り難い。
俺は奴と知り合って様々な事を知ったが、未だにあの男の『命題』とやらは理解できなかった。
別にする必要も、したいとも思わなかったのだが目の前で可哀想などと言われては流石に頭に来る。
だからこそ、奴を形成している最も根幹の部分であるそれを理解したならば幾らか苛立ちを紛らわす事も叶うだろうと 思ったのだ。
きっと俺は、悔しいのだろう。
そう、認める自分も心の奥にいるが一体何に対して悔しいと思っているのかは皆目分からなかった。
奴が消えてからほぼ生活の中心となっている寝具の中で向きを変える。
全く、何処から金を手に入れているのか分からないが男の住んでいるマンションとやらのこの一室は恐ろしい程に広い。
しかも全体的に黒で統一された無機質で人の気配すら押し殺してしまいそうなこの部屋を俺は意外と気に入っている。
窓には吸血鬼の天敵である太陽から身を守る為の分厚い遮光カーテンとやらが掛かっていて、電気をつけていない 今はまるで夜のように薄暗い。
いや、もしかしたら夜なのかもしれないがもう何日も外を見ていないためにそれは全くもって分からなかった。



(俺には、無い……のかもしれないな)


ふ、と浅い息を吐き出して白い枕を握った。
そんなに強く握ったわけでもないのに綺麗に皺を作るそれがなんだか可笑しくて笑える。
あの男は、何処に行ったのだろう。
消えることに慣れていても最近は何処にも行かずにずっと俺を貪っていたのにまるで引き潮のようにあっさりと 消えてしまった。
……俺に見切りをつけたのだろうか。これはかなり前から思っていたことだ。
それならば早々に出て行かなければならないのだが別に誰も来ないのだから良いだろうという自分に逆らえない。
だから俺はずっと惰眠を貪るようにこの寝具に縛り付けられたまま。
少し前なら、男が帰ってこないと考えてさっさと出て行くだろうに今は何故かここを動きたくなかった。
あの低くも確かにあると感じられる体温が、恋しい。
そう思う自分に嫌気が射す。こんなことで一喜一憂するなどまさに男の思う壺だ。
奴は何処か屈折しているから、自分に纏わりつくものを良しとしないだろう。
それは俺も同じだ。
けれども今の俺はまるで女のようにあの男の帰りを待ち侘びている。
もう帰ってこないかもしれない男を、何時までも待ちつづけている。
その現実が俺を苛み、心を痛ませる。
どうしてこんなに恋しいのだろうか。
あんな吸血鬼に俺は体だけでなく心まで一分の隙も無く奪われてしまった。
空恐ろしい事だ、と俺は小さく呟く。
しかし真っ白な布はそれを完璧なまでに吸収して、何も返してこない。
俺は、考えるのも嫌になって、一日のほぼ全てとも言える睡眠に再びその身を投じた。




□ □ □



真っ黒な、夢を見た。
黒に抱かれる夢を。
赤く染まった俺を抱いて、真っ黒な男がただ、無表情で佇む夢。
俺はそれを何処か遠くから眺めていた。
俺は、死んでしまったのだと思いながら。
何時もは何処までも不遜な男が何故か辛そうに見えて、その背に手を伸ばす。
しかしそれは何時までも何時までも届かない。
死骸を抱いた男が遠くなっていく。
けして届かぬと知りながら俺は手を伸ばしていた。
男の名を必死で呼びながら。
そうして薄れ逝く景色の中で、ただ俺は、死にたくない。と呟いていた。




□ □ □



「…………っは、……はぁっ」



何とも嫌な夢を見たものだ。俺は頭を抱えそうになる。
しかしその前に何か大きなものに頭を撫でられ、顔に何か暖かく濡れた柔らかいものを押しつけられた。
何事か理解する前にそれは俺の顔を拭っていく。
暫しごしごしと顔の汗を拭かれた後に、顔を上げると消えていた男がそこには居た。
まだ寝ぼけているのかとその男を見つめていると、再び頭を撫でられる感覚がして漸くそれが現実なのだと 理解できた。
その後男が部屋同様に広い寝具の上に腰掛けてこちらを抱きしめてくる。
かなり苦しい体勢だったが、黙ったままの男には何か鬼気迫るものがあり抵抗も出来なかった。
そうして男が久々に聞く低音で呟く。



「……何故帰ってきて早々に魘されているお前を看病しなければならない」

「……は、……もう帰って来ないのかとばかり思っていたぞ……」


男の憎まれ口にやっと何時もの勘とやらが戻ってきたのかこちらも掠れた声で返す。
しかし男はそれを聞いてまた何か皮肉でも返してくるかと思ったのになんだか笑っているようだ。
本当に、何から何まで俺の理解の範疇を越えている。
だが久々に側にある温度が心地よくて何時の間にか擦り寄っている自分に気がついた。
一番良く分からないのは自分かもしれない。
そういえば先ほどまでは真っ暗だった部屋にも灯りが点り、ぼんやりとしか見えなかった世界をはっきりと 映し出している。
俺が落ち着いたのを見計らって男は俺が洩らした必死の皮肉の台詞に余裕で返してきた。



「ほう?……帰って来ぬかも知れない男を何時までもこうして待っていたのか……随分と健気になったな」

「………ここの方が、路地裏より幾分か寝心地が良い」

「…………そういう事にしておいてやろう……」


そうして男はまたクツリ、と笑う。
無性に腹立たしい。なんだか男に小馬鹿にされているような、そうでなければ掌で弄ばれている気分だ。
大体、誰がこの部屋の留守を守ってやっていたと思っているのだろうか。
もし誰か入ってきたら困るのはそっちだろう。
まぁ、盗って財産になるものなど殆どここには置いていないのだが。
しかし男は出ていったときとは全く異なり随分と機嫌が良さそうだ。
出ていったときは、なんだかよく分からないが憮然というか不機嫌というかともかく理解出来ない表情をしていたのだが。
それにしても一体何処に行っていたのだろうか。
この男のことだから、捕食か、はたまた奇妙な生物を追いかける旅に出ていたのか。
そこらへんは余り聞かない方が良いと把握したのでかなり前から聞いていない。
今回もまた聞かない方が良いだろう。
しかし、先ほどの鬱屈した状態が嘘のように気分が晴れている。
寧ろ先刻の自分は一体どうかしていたのだろう。
そうして今までの隙間を埋めるように男の若干獣すら感じさせる匂いを吸い込む。
途端に何か壊れてしまいそうなものが修復されて行くような感覚がした。



「…………やけに素直だな……寂しかったのか?」

「煩い!」


薄く笑いの込められたその言葉を一蹴しつつも更に擦り寄り、自分でも縋るようだと思うほどに抱きつく。
すると男はその腕を解くことなく、寧ろ腕の力を強めた。
馬鹿馬鹿しい茶番だと思ったが、それでもこの今はこの体温を手放せるほどに強くはない。
まるで幼子をあやすように男の手が背を擦って行く。
けして高いとは言えないが、服越しに伝わる温度と掌に安堵した。



「少し灸を据えすぎたか……」

「……何か言ったか……?」


聞こえない程の声量で呟いた男の声を聞き逃したがどうせ大した事ではないだろうと思って問いただすのは止めた。
男にはバレていないと信じたいが、夢の内容は黙っておこうと思う。
そしてこの一瞬だけは素直になっても良いかもしれないな、と心の奥で嘯いた。




-FIN-








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