01.髪を梳く




仕事がある程度まで片付き、休憩でもしようかと固くなった体を伸ばす為に立ちあがる。
全く、あの者達がもしも私が所属している大学の人間では無かったならばすぐにでも食らってやる所だと言うのに。
しかし折角手に入れた天職とも言えるこの仕事を失うわけにはいかない。
それに大学内で何回も集団失踪が起これば面倒な事にしかならないのは今までの経験上良く分かっているのだ。
だがもしも私がこの場所に定住する気が失せたなら、そういう事件が起こるかも知れぬ。
まぁ、その可能性は現時点では0%と言って良いだろう。
何より今の私には養わねばならぬ存在もいるのだから。


(…………)


そんな事を考えているとずっと放っておいた奴に唐突に触れたくなる。
奴は淡白なのか、はたまた我慢強いのか私が仕事をしている最中には滅多に側に近寄ってこない。
それに加えて私の雰囲気がまさに『近づくな』と言っているのもあるのだろう。
仕事も落ち着いたのだし、構いに行くか。
そんな事を考えながら奴がいる筈のリビングへと向かう。
この一室は都心に近いが、けして煩わしい場所にあるわけでもなく、部屋も広いので気に入っている。
最近は掃除をしていなかった筈なのだが、廊下は綺麗に片付いているので奴が掃除をしたのだろう。
そういう細かいところで私に気を使っているくせに、けして私の前では言おうとしない奴は素直ではない。
……そのような所が良いと言ってしまえばそれまでなのだが。
私の書斎から少しばかり離れた所にあるリビングの扉の前に着くと中から音が聞こえてくる。
テレビでも見ているのだろう、と扉を開けると案の定、ソファに座って一人テレビを見ている奴の後頭部だけが目に入った。


「七夜」


そう声をかけると奴は頭だけこちらに振り向いた。
その口にはこの間買い与えた菓子が銜えられている。
なんだかその間抜けとも言える光景にそっと笑うと、私の考えを読んだのか奴の額に皺が寄った。
それを気にする事無く、奴が座っているソファまで歩いて行って当然のように隣に腰掛ける。
黒い皮張りのソファが重みを受けて微かに沈んだ頃、奴の口に銜えられていた菓子は消えて無くなっていた。


「仕事、終わったのか?」

「まだだ、今回は少しばかり面倒でな……もう暫し掛かる」

「そうか」


そのまま隣で黙りこくってしまった奴から視線を反らすと何時も私が見ないような番組がやっている。
これが所謂、バラエティ、というものなのだろう。
ざわざわと喧しく画面の中から音が聞こえ、色取り取りの文字が所狭しと流れ、消えて行く。
やはり私にはニュースやドキュメント、そして世界の遺産や動物を淡々と紹介していく番組の方があっているようだ。
しかし若いコイツはこのような番組の方が好みなのかもしれない。
何時も大してテレビに興味を示さないので好き勝手に見てしまっていたが、少しは改める必要がありそうだな、と一人 反省してみる。
どうにも私と奴は歳が離れすぎているので、趣向が良く分からない。
ただ一つ確信できることは、奴が甘い物が好きという事だろうか。


「お前はこのような番組の方が、好みか?」

「んー…?……何時も見たこと無いから見ていただけだ。……だが俺にはさっぱり分からん」

「………では何故見ているのだ」

「……他にする事無いし……暇だったからつけてただけだ」


そう言って再び袋から菓子を取り出し、それを口に含んだ奴は心なしか不機嫌そうに見えた。
そんな奴の頭に手を伸ばし、細く流れる黒い髪を撫でて見る。
途端に奴は驚いたようにこちらを見てきたので更に続けてその髪を撫でると奴は少し顔を赤らめたのが分かった。
一度髪を撫でていた手を離して後ろから手を回して肩を引き寄せ、また髪を梳いて行く。
菓子を再び飲み込んだ奴は、自身の顔の赤さにも気がつかずに何時ものように憎まれ口を叩いた。


「……どうしたんだ?仕事のし過ぎで可笑しくなったか。……それとも、寂しかったとか?」


じっと此方を見ながらそう言う奴を愛らしく思いながらも黙ったまま暫く撫で続ける。
否定も肯定もしない私に痺れを切らしたのか遂にそっぽを向いてしまった奴の耳元で出来るだけ 優しく、そうかもしれんな、と囁くと見る見る内に奴の耳が赤くなっていくのが見えた。
冗談めかしてはいるが、これが本音だ。
ただ、私は奴のように素直さを出すのを躊躇う事をかなり前に失ってしまったので大した問題ではない。
その分、回数は極端に少ないのだが。


「………何時も変だけど、今日はもっと変な奴だな……アンタ」

「そうか?……たまには素直になるのも良いだろう?」

「………」

「ところで、お前はどうなんだ。……私が素直に言ったのだから、今日くらいお前も素直になってみたらどうだ?」


髪を梳いていた手に力を入れて、半ば無理矢理こちらを向かせると朱に染まった顔で必死に目を合わせぬように している奴を見つけてしまって内心で笑う。
行動でほぼ奴の心中が見通せてしまうというのは面白い事だ。
痛みや残酷さなどは見惚れてしまいそうな程の笑みで完璧に隠しとおすというのに、快楽や喜び、羞恥の感情は 上手く隠すことの出来ない目の前の子供はある意味で子供らしく、またある点では擦れているというのだろう。
だが、始めの頃はこのような顔を見せた事の無かった奴が今ではこうも容易く表情を変えるのは、一種の優越感を覚えるもの。
その分、私もこの子供の前では他の者には見せた事のない顔をしているのだろうとは想像に難くないが。
しかし今日は言葉で言ったのだから、私も奴の言葉を聞きたいと思うのは道理。
そっと追い立てるように更に言葉を紡いでやろうとした瞬間、奴の手で口に菓子を銜えさせられてしまった。
何時の間に、とふと下を見ると奴の手の中には銀の袋。
私が思考している間に机の上に置いてあった袋ごと掠め取ったのだろう。
仕方がないのでそのまま菓子を受け取りポリポリと軽妙な音を立ててそれを食べると、口の中に甘い香りと味が広がった。
甘い物はあまり食べないのだが、これは悪くないかもしれない。
そんな風に考えていると奴が小さな声で呟いた。


「……さっさと仕事、終わらせろ……待ってる……から」


私がその言葉に反応した時には何事も無かったかのように菓子を含んでいる奴を見て、薄く笑う。
幾ら誤魔化そうとしても、赤く染まった顔をすぐに戻すのは難しいのだろう。
そこにはまだ顔を赤く染めたまま、菓子を頬張っている奴が居たのだから。
私は奴の肩に回していた手で、名残惜しげに再度髪を撫でた後、残った仕事を完全に片付けてしまおうと 立ちあがったのだった。



-FIN-






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