12.後ろから抱きしめる




「!」


一体全体なんだというのか。分からない。
唯一分かるのは先ほどまで俺に興味も無さそうにしていた男が不意に立ち上がりその腕を俺の 腰に回したという事か。
今日した事といえば何時も通り男が居る場所に押しかけて、男の隣に座り、ただただ惰眠を貪っていただけ。
そうして少し体調が悪いような気がしたので、男にばれないように時間の所為にして帰ろうと立ち上がり、何時ものように振り返って男に挨拶をしようと したのだ。
こうやって今の状況を整理してはいるが、内心聞こえてしまうのでは無いかと思うくらいに高鳴る心臓を 止めたいだけで、自分でも良く分かってはいない。
こんなにも男が近くにいるという状況に陥ったのは初めての事なのだ。
しかも俺にしてみたら男は何時からか想いを寄せていた人物になっており、だから、こんな、男に抱きしめられるなんて。
とりあえず微かに掠れた声を必死に搾り出し、後ろの男に声をかける。


「……きし……ま……?」

「…………」

「……どうしたんだよ……」

「…………」


だが男は答えない。寧ろ腕の力がもっと強くなっただけだった。
大体今までこんな風に俺に対して行動してきた事も無いし、そんな素振りも見せなかった癖に。
違う、そんな事を考えたいわけでも、思いたいわけでもない。
この状況を説明して貰えれば、良いのだ。


「……なんだよ……冗談なら、止めてくれ」

「……」

「……っ……」


そう男を煽って本心を確かめようとするが、男は発言もせずそのまま俺のうなじ辺りに顔を埋める。
その髪が擦れる感覚と、首筋を滑る吐息に思わず息を詰めると男が小さく笑ったような気がした。
急激に恥ずかしさを感じて、顔が火照るのが分かる。


「この、離せ……!」

「……いやだ」

「……もう帰るんだよ……」

「…………」


そう呟くと男は黙り込みまるで甘える犬のように鼻を摺り寄せてくるものだから、困ってしまう。
まさかこんな甘い空気を出されるなんて、思ってもいなかった。
どうしたら良いのか分からない、混乱していると自分でも思うのに男は説明もしてくれないものだから もっと混乱してしまうのだ。


「……急に、……ずるいだろ……」

「……」

「……きしま……」


男は答えない。
だが男の吐息は絶えず聞こえてきて、尚且つ此方の首先を撫でていく。
それが余りにもくすぐったいやら恥ずかしいやらで俺は俺を抱きしめている腕に微かに爪を立てる。
しかしそれもすぐに止め、その太い腕に指を這わすと男がそれに答えるように俺を抱く力が強くなった。



□ □ □



それはオレにとっても唐突だった。
最近になってオレに付き纏うようになった餓鬼が一人居る。
それは七夜と言って、始めはオレと戦う事しか眼中に無いような顔をしていたというのに ある時からそのような殺気も失せ、隣でまどろんでは笑っていた。
始めはそのような心変わりなど在りはしないと、オレは餓鬼に対して警戒を解かなかったのだが、 それすらも問題では無いかのように餓鬼は小さく笑っては毎日のように此方にやって来る。
何時しかそんな餓鬼の存在を受け入れ、そうしてその存在を求めている自分が居るのに気がついてしまった。
何も知らないような餓鬼に釣りの仕方や森を案内してやれば餓鬼は愉しそうに微笑んでは、普通の 子供のようにそれを楽しむ。
それが思いほか愛らしくて、動揺してしまった。
そんな風に微笑まれるとは思っていなかったし、餓鬼がそのような顔をするとも思っていなかった。
その笑顔を見ていると、オレは自分でも分かるくらいに胸が音を立てる。
このような感情など持っていなかった筈だというのに、それすらも無視して心が躍るのだ。
まるで恋焦がれているのを主張するかのように。


『軋間』


そう餓鬼が幸せそうな声音でオレの名を呼び、笑う度、それだけで何か充足感を得ることが出来る。
嘘のように思えるこの感情や、餓鬼が演技であるかもしれない可能性すら全て忘れて、ただただ オレよりも幾分か細く儚げな餓鬼を抱きしめたくなる。
しかしそのような事等、出来る筈も無く、何日も隣で眠る餓鬼の頬を僅かに撫でるだけに留まっていた。
だがそれだけで満足出来る筈は無い。当然、餓鬼の真意も聞きたいと思っていた。
それでもそれをしなかったのは、餓鬼がそれを望むとは思えずに、尚且つ自分の心を出すことで餓鬼に 拒絶されるのが嫌だったからだ。
だがしかし、今日もまた此処に来て、オレの隣で眠る餓鬼の頬を何時ものように撫でようとしたとき、 その体が薄く透けているように見えて驚いた。
起こすことはしなかったが、確認の為に良く良く見てみれば、やはり何時もよりも存在が薄いように感じられて。
考えてみれば餓鬼は最近体調が悪いと言っていた。
そうして餓鬼の領域ではない此処に来る事は余り好ましい事では無いと少し前に小さく呟いてもいたのだ。
それを思い起こし、全てを理解した瞬間、背筋が薄ら寒い感覚に襲われた。
……この隣に居る餓鬼はこのまま消えてしまうのではないのか。
何か、助ける方法は無いのか。
そう考えた時、もう二度と此処に来なければ良いのだという事実に気がついてしまった。


『……七夜』


嫌だ。
それだけは、嫌だ、と心が叫ぶのが分かる。
何か他に方法は無いのか、と縋るようにその頬を撫でる。
すると撫でた所から再び餓鬼の存在が濃くなって、何時ものように色づく。
オレが餓鬼に触れた部分から何かが流れる水のようにゆっくりと注がれているような感覚を覚える。
そうして瞬時に理解する事が出来た。
今日、餓鬼に対してこの想いを伝えなければもう二度と会えなくなるかもしれない。
消えてしまうかもしれない体を抱えた餓鬼が上手く街にたどり着けるかも分からない上に、たどり着けたとしても恐らく二度とこちらには来れないだろう。
しかしオレが餓鬼に触れる事で餓鬼が救われる方法を発見したのだ。
つまりはオレが餓鬼に触れる事が許されるなら。


『……ん……?』


そんな事を考えていると不意に餓鬼がその目を開く。
オレは咄嗟に撫でていた指先を離し、その餓鬼を支えると餓鬼が笑った。
しかしその後分からないくらいにつらそうな顔をして、微かに首を傾げる。
恐らく自分の体が不調な事に気がついたのだろう。
餓鬼はそんなつらそうな顔をすぐに消すと、突然立ち上がり時間と天候の所為にして帰ろうとする。
確かに今日は曇りではあるが、そこまですぐに雨が降るとは思えない。
それに何時もだったら時間が来ても何だかんだと名残惜しげにするくせに。


『そろそろ帰る、……また……』


だからオレはそんな台詞を吐きながらこちらに振り返ろうとする餓鬼と同じように立ち上がり、その細い腰に思わず手を回していた。



□ □ □



「…………」


一体どれくらい経っただろう。
それでも俺は男の腕を振り払う事が出来ない。
それは不調であった体が勝手に力を男から少しずつ啄ばんでいるからだけでは無い。
何よりもその温もりを手放したくないのだ。
男は気がついてしまったのだろうか、俺が最近体調が悪く、あまり調子が出ていなかった事に。
きっと男の事だ、分かっていて俺を引きとめているのだろう。
しかしそれ以外の感情も、あるような気がしてしまう。
まるで俺が男に対して抱いているような、そんな感情。
……そんなわけはないか、と小さく頭の中で響く。
男は俺のように邪な感情など抱いていないだろう。男は何時だって無表情で、それでも、優しくて。
ドクドクと耳に響くくらいに心音が高鳴る。
何も言ってくれないからこそ、緊張してしまう。


「……もう……大丈夫、だから……」


俺はそっと押し出されるように呟く。
そう伝える事で、男には通じるような気がするから。
すると男の腕が緩まり、安心していると、不意に振り向かされ、男の胸に再び抱き寄せられる。
温かく、厚いそれは奥で規則正しい心音が響いているのが分かった。
もう抱きしめる必要も無いのに、抱きしめたまま男がこちらを見遣る。
その目は何か、愛しいものを見るような、それでいて、何か熱を秘めているのが分かった。
ゾクゾクとした痺れが背筋を這う。
そんな顔をされてしまったら、期待してしまう。
何を、とは言わないけれど。


「…………」

「……!……きし、……ま……」

「…………」


男はそっと此方の首筋に顔を寄せ、ちゅ、と音を立てて吸い付いてくる。
抵抗しようにもそんな気はまるで起きず、寧ろ、もっとして欲しいという気持ちの方が先走ってしまうそうになって。
けれどまだ此処は森の中で幾ら曇りとはいえまだ夕方なのだ。


「……んッ……」

「…………七夜」

「……流石に……これ以上は、ダメ……だ……」

「本当に……ダメか……?」

「…………そんな……」

「…………」


そう呟くと男が小さくため息を吐く。
呆れさせてしまったのかと一瞬、ビクついてしまうが、そうではなかったのか男が首筋に 顔を埋めて低く囁いた。


「すまない」

「…………」

「……お前がすぐに消えてしまいそうで、焦っている……」

「……もう、平気だって……」

「本当か?」


その言葉で男が顔を上げる。
男の瞳に映っている色は真剣そのもので圧倒されそうになるが、小さく頷くと男は安心したように 微かに口端を上げて笑った。
その笑った顔に、収まっていた筈の動機と顔の赤みが戻ってくる。
やはり男はズルイ。
今まで何のリアクションもしなかったくせに、急にこんな風になるなんて。
これでは俺はついていけずに振り回されてばかりでは無いか。


「ホントに、ずるい……」

「……そうか?」

「そうだよ……」


そう言いながら男の胸に顔を寄せ、背中に腕を回す。
もう此処までしたのだから俺の想いも男の想いも同じなのだろう。
―――そうであると信じたい。
男は再び笑ったのか小さく声が聞こえて、俺は微かに苛立ったものの、後ろに回された腕に 安心してしまって黙り込むしかなった。



-FIN-






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