14.――格子越しに触れる


※遊郭パラレル・二人とも死亡エンド



此処は吉原、男達の夢と愛欲の集う場所―――
そういえば聞こえは良いが、実際はドロドロとした、いさかいの絶えない場所だと俺自身はそう認識していた。
争いが絶えないのは何も此処だけではないが、愛憎やら利権やらが入り混じるとその陰欝さはさらに深くなる。
仕事柄そのような事は何度も目にしてきたし、慣れてしまっていた。
今の俺の仕事というのは頼まれれば誰でも守る用心棒のような物。
以前は全く逆の事を生業としていたのだが、俺を支配していた人間は死に絶え、 漸く自由の身となった俺が選ぶ仕事としてはある意味当然とも言えるものだった。
一時は山に篭り仙人のような暮らしでもしようかとも思ったのだが、何処で暮らすにしても金がいる。
隠居しているわけにもいかず、山奥に居を構えながらもこうしてたまに仕事をしに街に降りて来るのだ。


(………しかし、いつ来ても……)


その先は考えないようにした。
此処に来る男は汚らわしいと思えども、働く女にとっては仕方の無い場合の方が多い。
俺は、はぁ、と小さなため息をついて寄り掛かっていた高い壁を見上げる。
そこは吉原でも五本の指に入るといわれる有名な遊郭だ。
俺を此処まで引き連れてきた今日の客は如何にも成金といった所で、俺を置いてさっさと遊郭へと行ってしまった。
なので仕方が無く外で待機している羽目になっている。
……あの様子ではすぐに追い出されるかと思ったのだが。
さながら金の成る木として認識されたのだろう、散々飲まされ最後に痛い目を見て帰ってきそうだ。


(…………さて)


俺は再度ため息を吐いて、壁から身を離す。
此処に居てもする事がない。
俺はフラフラとその場から離れ、辺りをうろつく。
本来なら客引きをすべき女郎達も俺の顔が恐ろしいのかおいそれと声をかけてきたりはしなかった。
そうして辺りをうろついていた俺は、ふと、とある一本の裏路地に入ってみる。
その路地裏を暫く行くと不思議な看板が見えた。
不審に思いながらも近づいていくと、それが何なのかが良く分かった。
………あれは影間を扱う店のものか。
ほんの一瞬だけ目を取られたが、俺にはそんな気などない。
急いでそこを通り抜けようとした瞬間。


「………!」


思わず吐息が漏れる。
しかしそれは焦りではなく、感嘆から漏れでた吐息であった。
酷く懐かしい……そうして本当に美しい物を見つけた、そんな感情。
一体何かと言うと、そこを抜けようした時、ふと横を見た俺は赤塗りの格子の中に居る一際異彩を放つ青年に目が奪われてしまったのである。
それは青年も同じだったようで、他に誰も近づいて来ない中、一人だけ俺に近づいてきた。
近づいてきた青年をマジマジと見ると、その色素の薄い煙色の瞳が影を落とし、一層その青年の色香を増幅させているのだと理解する。


「……名は……?」


そう掠れた声で問うと、その青年は小さく答える。
俺は其れを聞き逃さないように格子に近づいてその柔らかそうな唇から聞こえる声に耳を傾けた。


「……志貴」

「シキ?」

「志の貴いと書いて志貴」

「…………」


青年は皮肉っぽく笑いながらそう言った。
おそらく、それは本名なのだろう。
そうして今の自分の境遇とは全く違っているからこそ笑う。
……俺はそんな風に笑う志貴が酷く悲しそうに見えて、いてもたってもいられず格子に手を触れる。


「…………」


しかしそこにはただ薄汚れた朱色の格子があるだけ。
反対側で志貴も同じように手を格子に触れているというのに。


「……少し待っていろ」


そう志貴に言いつけ、俺は急いで店の入口向かった。
そこは先程の遊郭とは比べものにならないくらい小さく、何処にでもありそうな茶屋だったが、そこの主は一風変わっていた。


「おやおや……珍しいお客様だ」


異邦人なのだろうか、金色の長髪をたなびかせながらも鮮やかな着物を着こなしている主らしい人間は些か芝居がかった口調でそう言った。
おそらく、花の手入れをしていたのか、受付に立ちながらもその手には色とりどりの花が何本か乗っている。
そうして厭味なほどに、その様子は様になっていた。


「それとも……暴漢かな?」

「……いや、客だ」


その慇懃無礼な態度に微かに苛立ちを込めながら答える。
どうにもこの主人は嫌味が得意のようだ。


「おや、これは失礼致しました。……それでどの役者を御望みで?」

「志貴という青年を頼む」


即答すると、主人はその細く閉じた目を微かに開き、驚いたような顔を見せる。
あんなにも美しい青年だ、人気だといわれても可笑しくは無い。
だが俺の考えとは違って、店主の答えは意外なものだった。


「おやおや、彼を選ぶとは珍しい」

「?」

「なんでもないですよ……ところでこちらは先払い制なのですが……」


その台詞を聞いて、俺は懐から藍色の巾着を取り出し、かなり多めの額を渡した。
流石に驚いたようでずっと目を伏せているように見える男の眉が微かに寄る。


「お客様……良いんですか、こんなに」

「あぁ」


元々質素な生活をしている上に、用心棒で貰える額は少なくない。
なので自然と金は余っていた。


「まぁ私としては悲鳴が出るほど嬉しいんですが……志貴が相手をしたがるかどうか……」

「大丈夫だ」


そう核心めいた台詞を吐くと、目の前の男は薄く笑って俺を店の奥へと案内した。



□ □ □



案内されたのはこの店の階段を上がった二階の一番奥の部屋で、外の騒がしさも此処には届かない。
恐らく特別な人間が通される間なのだろう。
一見である俺がこんな所に通されるのもどうなのかと思ったが、余り話し声も聞こえなかった事から、今日は其処まで客も居ないのだろう。
志貴が来るまでに部屋を見回してみたが、畳や部屋にある調度品も美しく、蝋燭の明かりでボンヤリと灯され、温かみがある。
この部屋とは別にある閨(ねや)の方も覗いては見たが、どうにもこの店の主人の趣味なのかけばけばしい真紅の褥(しとね)で、どうにも落ち着かない。
……いや、別にそのような事を致しに来たわけではないので俺には関係が無いのだが。
そんな事を考えていると、程なくして志貴がスルスルと障子を開けて現れた。
その顔は心なしか不服そうである。
そうして優美で洗練された動きで俺の前に座った。


「本日は御指名頂きありがとうございます。志貴と申します」


そうして殆ど棒読みでそう言い放つ。
一体何がそんなに気に入らなかったのか。
俺は一目で通じ合ったと思ったのだが……あれは客を引くための演技か?


「……何をそんなに苛立っている」

「別に何も無いですよ?」

「……俺と話すのは不満か?」

「……違いますけど……」

「では何故だ?」


微かに言い淀むかのような表情をしていた志貴が顔をあげ、呟いた。


「……あんなに大金叩いて……そんなに俺と……その……」

「いや、ただ話をしたかっただけだ」

「え……?」

「あれは……お前と出会えた事への祝い金だ。次回は少なくなるからな……覚悟しておいてくれ」


そう言って薄く微笑むと、志貴は微かに顔を赤らめた。
成る程、先ほどの暗い表情とは違って、このような可愛らしい顔もするのか。
そんな風に思っていると、志貴が恨めしげに話し出す。


「……何時もそうやって口説いてるんですか」

「いや?……俺は元々吉原にあまり来ないからな。来たとしても付き合いやら仕事やら……まぁそれなりに経験はあるが、口説きたいと思う程の人間もいなかった」

「……へぇ……」

「ついでに言えば、このような……男同士の場所も初めてだ」

「…………」

「どうかしたか?」

「……なんでもないです」

「……ところで、敬語は止めにしないか」

「でも……」

「お前とは腹を割って話が出来そうなのに、敬語が壁になるのは困る」


そう言うと、志貴は暫く逡巡した後に怖ず怖ずと頷く。
俺はそんなシキの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと掻き混ぜた。
指に絡まる髪は柔らかく、明かりに照らされキラキラと輝く。


「………変な御人」

「そうか?……よく言われる」

「……でも、目だけでこちらを射ったんだから、期待ハズレじゃ俺も困る」

「お互い様だ」


微かに困ったような顔をしていた志貴は、すぐに其の目を悪戯っぽく光らせ、ふふっ、と小さく微笑み、酒はどうかと聞いてきた。
あれだけ出されたらきっと主も無償で酒を出すだろう、と。
俺は一瞬、自分が此処に来た理由を思い出したが、先にこちらを無下にしたのは向こうだし、前金しか貰っていない。
ならば契約違反とはならないだろう。
俺はそう考え、志貴に酒の支度を頼んだ。



□ □ □



先程まで俺の眼前に座っていた志貴だったが、酌をしてくれる為に今は俺の横に座っている。
主の用意してくれた物は酒だけでは無く、何処から用意したのか分からないが美味な料理もあった。
俺はそれを志貴と共に舌鼓を打ち、今は酒を飲みながら慣れ親しんだ煙管をふかす。
部屋の中にはボンヤリとした煙と共に、緩やかな時間が流れていた。


「………そうだ、なんて呼べば良いんだアンタの事」


そう思い出したようにその緩慢な時間を志貴が破る。
俺は今更か、と思いながらも一度煙管をふかしてから答えた。


「軋間、だ」

「…………軋間……?」

「軋みのあいだと書いて軋間」

「…………」


志貴は俺の名を聞いた後、こちらも驚くくらいに狼狽していた。
けれどそれはすぐに掻き消され、志貴は口の中で俺の名を転がしていたようだった。
……そうしてそっと俺の名を呼ぶ。


「……軋間様」

「………軋間様何て言う器では無い。………普通に軋間とでも呼んでくれ」

「……じゃあ、軋間」

「……なんだ、志貴」


ふわりと漂う名前の応酬に、お互い可笑しくなってしまって、クスクスと小さく笑い合う。
すると志貴がずっと聞きたかったのだと前置きをしてから俺に質問を投げかけてきた。


「軋間は何の仕事してるんだ?……ただ金持ち……にしては纏う雰囲気が剣呑過ぎるし、侍って感じでも無い。……賊かとも思ったが、どうにもそれには上品過ぎて合わないし……あ、答えたくないなら良いんだけどな」

「……用心棒だ。雇われれば誰でも守る」

「用心棒?!……なら強いのか?」

「全て独学だかな……しかし今まで仕事に失敗した事はない」

「へぇー……」


此処で武術でも教えてくれとせがまれるかと思っていたが、志貴の答えは全く違ったものだった。


「じゃあ今度手合わせしよう。……俺もある意味独学だが強いぞ」

「ほぅ……」


此処で漸くこの店の主が珍しいと言った理由が分かったような気がした。
この青年は自分より強いもので無ければ幾ら積まれたとしても作り笑いを浮かべる事すらしないだろう。
しかも志貴自身が言う通り本当に強いとしたら彼の眼鏡に適う人間はそうそう居まい。
だから主は用心棒という役職で、志貴を選んだ俺と、俺をあっさりと受け入れた志貴が目新しく映ったのだ。


「………なぁ、軋間」

「……?」

「やっぱりアンタは……」


急に志貴の顔に影が落ちる。
しかし俺が問う前にその表情は元に戻り、声音も明るいものへと変わってしまう。


「いや、やっぱりなんでもない」

「………そうか」


俺は深くは聞かれたく無いのだろうと判断して煙管をふかし、煙を吹き出す。
志貴は、ゆるりとその手に持った杯で酒を飲む。
穏やかだが何処か色香のあるその仕草は、酷く好ましかった。


「……明日も来てくれるか?」


暫くの沈黙の後、志貴がそう呟く。
俺はその寂しさを滲ませた声に思わず志貴の方を向くと、志貴はさらりと着物を滑らせこちらに近寄って来る。
その着物は俺が着ているような地味な色の物ではなく、明るい色彩と柄で女物のようだ。
いや、実際女物なのかもしれない。
薄昏い部屋の中、煙管から漂う煙と、上等な酒や食事、そうして寂しげな声音でこちらを請うてくる志貴。
くらり、と微かに意識が溺れてしまうのも仕方が無いのだろう。
そもそも、志貴がただの媚びを売るような笑みでこちらに問うてくるならばまだ、此処までではなかった。
寧ろそのように媚びを売ってきていたなら失望すらしたかもしれない。
けれど志貴の甘えるような言動は、まるで人を信頼していなかった子猫が始めてこちらに近寄ってきたかのようで、その姿を突っぱねる気には到底なれなかった。
もしもこれが客を取る為の演技ならば、騙されていても良いと思える程に。


「?……軋間?」


俺はゆるりと手を伸ばし、すぐ横に居た志貴の髪を撫ぜる。
志貴は驚いたのか少しびくついた後、苛立ちを込めた声で呟いた。


「子供扱い……するなよ」

「俺からしたらお前はまだまだ餓鬼だ」


そう言って、殆ど中味が灰になりかけている煙管をふかしながら更に志貴の頭を撫でた。


「絶対何時か後悔させてやる……」

「…………ん?」

「……別になんでもない」

「そうか」


俺は志貴の言葉が聞こえなかったフリをして、もはや燃え尽きて仕舞った火種を側にあった煙草盆の中に叩いて捨てる。
それ顔は自分でも驚くくらい晴れやかだった。



□ □ □



それからというもの、俺は何度も志貴の元へ通った。
本当に話にいくためだけに。
それは志貴が強請る外の様子を伝えるものだったり、志貴が嫌な客をどのようにあしらったか、なんて言う話まで色々だ。
そんな話を夜遅くまでして、後は二人で布団に包まり眠る。
本来ならば性的な関係を持つ為だけの其の場所は、俺と志貴にとっては清らかな逢瀬をする為だけに使われていた。
けれどそれでは志貴は嫌らしく、何度か誘われたりもしたが俺は全てそれを拒否していた。
本当ならば今すぐにでも志貴を掻き抱いてしまいたいと思ってはいる。
けれど本当にそうしてしまったら、俺は、志貴を嫉妬の余りその日の内に連れ去ってしまうだろう。
だから、なるべく主人に志貴の客を取らせないように言い含めて、身請け用の金を都合している途中なのだ。
……愛し合うのは、志貴を完全に俺のものにしてから。
そう必死に言い聞かせて、自分の理性を抑えている。
だがそんな思いは志貴には通じない。


「……んー……」

「……眠いのか?」


そっと傍に寄り添っていた志貴に対してそう呼びかける。
すると志貴はこくりと頷いて、手で目を擦った。
俺はその擦る手を止め、そのまま自分の胸の中に志貴を抱き寄せると、志貴が小さく欠伸をした。


「……なぁ、軋間」

「どうした?」


その声が酷く苦しげに聞こえたので、俺は強く抱きしめすぎたかと慌てて力を抜く。
下を見ればとろりとした瞳の志貴がいて、其の目は薄暗い。
まるで初めて出会ったときのようだ。
今まで俺と話をしていてこんな瞳になったのは、俺の名前を聞いた、あの時だけ。


「……志貴……?」

「いや、なんでもない。……もう遅いし眠ろう?」

「…………」


これは、何かある。
俺はそう確信した。
だが、それを口に出来るほどの確固たる証拠があるわけでもない。
だから俺は今までずっと考えてきて、言えなかった事を遂に話す事にした。


「……軋間?」

「志貴、明日来た時に言おうと思っていたのだが……」

「…………なんだ」

「お前を身請けしようと思ってな」

「!」


ビクリ、と腕の中の志貴の体が震えた。
俺は志貴を抱いている片方の腕を腰から外し、そっとその髪に忍ばせる。
今まで何度と志貴の髪を撫でたが、何時だってその髪は絹のように滑らかな手触りで、俺の心を和ませた。
だからこそ、こんな籠の中に志貴は置いて置きたくない。
出来るならばずっと傍に居て欲しい。
俺はそう思い、かなり前から店主とは話を進めていた。
あの芝居がかった異人の店主は始めは渋っていたが、ある意味自分の子供同然である志貴の幸福を考えて俺に託すと言ってくれた。
無論、金は必要だったが、普通の身請け料よりも断然安く、寧ろ志貴の持っていた着物などを全て此方に渡すと言ってくれた。
つまり、それらを売れば相当な金になるので、俺が払う金など意味が無いという事だ。


「……一応、店主とは話がついている」

「…………」

「だが、お前の意見を聞いてからにしようと思ってな」

「…………」

「もしも、お前が俺の傍にいるのが嫌ならば、俺は束縛したりもしないつもりだ」

「…………」

「……だから……って……志貴?」


志貴は先ほどとは打って変わって、青ざめた顔をしている。
何か言おうとする前に、志貴は俺の腕の中から退いた。
そうして後ろを向いた志貴が小さく囁く。


「……悪い……急、だったから……」

「此方こそ悪かった……」

「……先に、布団入ってるな」


後ろを向いてそのまま志貴は立ち上がり、そっと隣の部屋へ続く障子を開け、そうして閨へと行ってしまう。
俺はその後ろ姿を見送った後、煙管に刻み煙草を詰め、そっと火を灯した。
ゆっくりとふかせば、ほろ苦い香りに包まれ、そっとため息をつく。


(……もしも、志貴が俺と共に居てくれるならば)


二人で山奥に住んで、四季を感じるような生活をしていきたい。
きっと其れは幸せなのだろう。
……奴となら、今までにない幸せを、掴めるかもしれない。
そんな夢を見ながら、俺は暫しの温かさに浸った。



□ □ □



(どうしたらいい……どうしたら)


俺は布団の中で震えていた。
片手には形見としてずっと大切に持っていた刃。
軋間の名を聞いた時、俺は確信した。
俺の一族を殺し、俺を此処に売った賊の一味だと。
あの月の美しい夜、俺の前に現れた男。
夢に何度も何度も現れては俺を、殺していった男。
何時しかその夢は、男と愛し合う夢になった。
……男は、軋間だった。
だから、俺は、……俺は。
これ以上、軋間を愛してしまう前に、さっさと軋間を騙して殺してしまうつもりだった。
演技は得意だったから、騙すのだって簡単だと思っていた。
だが軋間は俺が幾ら誘ってもそれには答えず、俺の事を考えてくれている。
そんな男の気遣いが、疎ましくも愛しかった。
今考えてみれば、あれは運命だったのかもしれない。
初めてあの格子越しに男と目が合って、手を合わせたとき。
あぁ……どうして、気がついてしまったのだろう。
いや、逢わなければ良かったのか?
逢わなければ、こんな事にならなかった?


(駄目だ、きっと……)


何時出会っても、きっと俺は軋間に殺されていただろう。
それは身体的な事では無い。
精神的に射抜かれて、俺はきっと殺されている。
今だって、先ほどの言葉が嬉しくて仕方が無かったのだ。
憎しむべきなのに、嫌がるべきなのに、心が締め付けられるような痛みを覚えて。


(……なんで、アイツなんだ……)


頬を滑る雫には気がつかないフリをして、そっと布団から出て、軋間の居る部屋へと向かった。



□ □ □



そろそろ、志貴も眠っただろうか。
俺はその後、外の景色を眺めながら時間を潰した。
正直、告白に近いことを始めてしたので、少しばかり気恥ずかしくもあったのだ。
そんな事を考えていると、ふいに閉まっていた筈の障子がするすると開いた。
そうしてよろよろとした足取りの志貴が出てくる。
その手には―――


「……志貴……?」

「……ごめん、……軋間……」

「!!」


手にあるのはキラリと光る刃物。
だが、その刃を持っている手は震えている。
何故そんな、事を。
そうしてその刃物を持った志貴が此方に近づいてくる。
その目は虚ろで、何も色を映してはいなかった。
そっと近づいてくる、志貴に対して俺は何も出来ない。
動くことも、そうしてその刃物を自分の首に押し当てた志貴を止める事も。


「……待て!……何をしている……」

「ごめん……もう……耐えられない……」

「何か……何か俺に何か非があるなら謝る。もし……身請けが嫌ならば、しない……」

「……違う」


そう言いながら志貴は首を横に振った。
その顔は辛そうで、見ていられない。
けれどその顔から目を離せば、すぐにでも志貴は死んでしまうだろう。
そんな危険な雰囲気を纏っている。


「何故だ……志貴……」

「軋間……お前は……『七夜』を覚えているか……?」


…………『七夜』
その言葉が、志貴の口から出るとは思っていなかった。
俺が盗賊紛いの事をしていた時、その盗賊一味と敵対していた一族がいた。
それが、『七夜』一族。
けれどその一族は、世に仇名す者達を粛清するという名目での暗殺家業から手を洗い、普通に暮らしていたという。
だが俺の主はそれを一向に信じようとせず、月の美しい夜に七夜一族に奇襲を掛けた。
それが、約十年程前。


「……思い出したのか?」


クス、と笑う声に思わず遠くになっていた意識が戻る。
あの微笑み、そうして、あの煙りかかった暗い瞳。
何処か懐かしい、そう思っていた。
しかしそれはただの勘違いだと、思っていたのだ。
だが、今、はっきりと思い出した。
あの美しい月の夜。
俺は一人の子供に声を掛けられたのだ。
着物を纏っていて、黒髪に煙りかかった瞳。
しかし、その子供は子供らしい無垢な瞳で俺に問いかけた。
……『お父さんやお母さんは、何処に居るの?』
俺はそれに答える事も出来ずに、ただ、黙って死体のあるだろう場所を指差した。
せめて、親の近くで死ねるように、と。
今にして思えば、酷く浅はかだったと思う。
そう願う事は、ただの自分満足だったのだ。
しかし、子供は生きていた。
そして今、俺の目の前に居る。


「あの時の……」

「俺も、……最初は分からなかった」

「…………」

「けど、名前を聞いて分かったんだ。……この店に来てからも自力で色々調べていたから」

「…………」

「『遠野』と『軋間』……何時か、絶対に復讐してやろう。そう思って」

「……あぁ……」


俺は思わずそう呟く。
何という事だろう。まさか、こんな事が本当にあるなんて。
けれど、今の状況と志貴の言葉は矛盾している事に気がついた。
もし本当に俺を殺したかったならば、俺が眠った時にでも殺せば良い。
それを出来るのは今まで何度もあった筈だ。
だが、今の志貴が持つ刃物は、俺では無く、志貴自身に向けられている。


「俺を、殺すんじゃないのか……」

「…………」

「……どうして、お前は……自分の首に刃物を当てている……」

「……俺だって……」

「志貴……?」

「俺だって、そう思っていたさ……!」


志貴の語気が荒くなる。
そうして志貴の首に薄い傷が走り、赤い血が滴った。
その赤と、肌の白さが妙に生々しく、焚かれた甘い香と血の匂い、そして煙管の香りが混ざり、クラクラとする。
さらには、志貴の瞳から流れる透明な雫。
何もかもが倒錯的で、これは本当に現実なのか分からなくなる。


「俺はあの夜からずっと同じ夢を見ていた」

「夢?」

「そう。……月の下で真っ黒な男に殺される夢……」

「…………」

「お前の姿を忘れてしまっていたからな……真っ黒な姿で見えたんだろう……」

「…………」

「でも、アンタだと分かってから、アンタに殺される夢に変わった」

「俺に、殺される夢……」


そこで俺は志貴の言葉を繰り返す。
俺が、志貴を殺す。
今でこそ在り得ないが、復讐者として俺の前に志貴が現れていたら、起こっていたかもしれない。


「……それが……何時しかアンタが微笑んでいて……そうして俺を撫でて……」

「……志貴?」

「可笑しいよな……本当」

「……志……貴……?」

「……何時からかアンタに……軋間に優しく抱かれる夢になって……俺は……今だって、……アンタを求めてる……」

「……待て……志貴……それは……」

「俺は……もう……耐えられない……」

甘く笑った志貴が、目の前で、血を噴出して倒れる。
余りにも唐突過ぎて、志貴が倒れ伏せる姿が緩やかにさえ、見えた。
俺は暫くして、這いずるようにして志貴の傍に近寄っていく。
しかしその間にもドクドクと志貴の首からは赤い鮮血が流れ出て、畳の目を伝い、ゆっくりと広がっていく。
志貴が寝巻きとして着ていた上質な長襦袢も、黒髪も、そうして手に持っていた刃物も何もかも赤い。


「……志貴……死ぬんじゃない……」

「……き……しま……」

「志貴……俺が悪かった……だからせめて、……俺に……俺に罪滅ぼしをする時間をくれ……」

「…………」

「たのむ……頼むから……!」


俺は志貴の上体を抱き上げ、そうして目も虚ろになった志貴の頬を撫でながら必死に声を掛ける。
だが、自分で喉を掻き切った志貴は、もう声も殆ど出ないのか、苦しげにひゅうひゅうと音を立てながら泣きながら口の端で笑った。
その顔を見ているのも辛い。
確かにこれは自業自得なのだろう。
けれど、あまりにも酷い結末だと思った。
もしも今すぐに過去に戻れるのなら、今度は志貴を連れて逃げるというのに。
だがしかしそんな事は起きない。
過去は変えられないのだ。
変えられるのは、未来だけ。
そうして、志貴は俺のせいでその未来を自分の手で絶ってしまった。
……俺のせいだ。
俺は強く志貴を抱きしめる。
どんどんと冷たくなる志貴の体から熱を逃がさないように必死になって。


「…………」

「……志貴?」


そっと志貴の冷えた指が俺の頬に伸ばされる。
俺はそれに答えるように志貴の方に顔を近づけた。
血に塗れた志貴の顔がゆっくりと近づいてきて、俺の唇に紅を塗ったように濡れた唇が触れる。
そうして呆然としている俺から志貴の唇が離れ、微かに動く。
その唇は、確かに―――


「おい、……志貴……しき……!」


ぱたり、と俺の頬に触れていた指から力が抜け、そうして、志貴の体が重くなる。
完全に志貴の命が尽きたのが分かった。
俺の腕の中で、志貴が。
ぽたり、と自分の瞳から何かが零れ落ちて、志貴の顔に落ちる。
今まで一度も泣いた事が無かった。
そんな俺が、始めて、涙を流している。


「……クッ……」


ハハハ、と乾いた笑いを洩らす。
やはり、幸せなどというものが俺に与えられる筈が無かったのだ。
志貴……俺も、傍にいこう。
俺は志貴が落とした血で濡れる刃物を取る。
ぬるぬるとしたそれは、蝋燭の明かりに照らされ淫靡な光を放っていた。
最期に俺を『好き』だと言ってくれた。
ならば、俺はそんな志貴を一人にしておくわけにはいかない。


「……志貴……愛している……」


そう言って、首に刃をあて、迷わず掻き切る。
最期に見た光景は、血に塗れた志貴と、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりだけだった。



-FIN-






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