22.ラインを辿る




ぼんやりとした視界を振り払うように何度か瞬きをする。
ここは何処だったか、としっかりと目を開ききった頃にはもはや体中を駆け巡る痛みに気がつかぬ筈も無かった。
死んだのだろうか。
いや、死んでしまったら痛みなど感じない。
痛みというただの部分だけでは無い。
死というものは、全てを欠落させてしまう。
それでも構わないと思っていた自分の脳内にこびり付いたタールのように立ち尽くしていた男は、実際に逢って見れば なんてことは無い。
ただの鬼神。そう、ただそれだけ。
何もかも敵わない、触れる事も、そうして必要以上に声を掛けることも無い。
それは運命(さだめ)というには絶望的で、必然だと謂えばたまらなく甘美。
影が炎に勝つことなど出来るはずもない。
光があるからこそ、ひっそりと生きていける闇が光に反逆する事など敵わないのだ。
く、と唇の端で笑う。
ぽたりとその端からきっと人並みに赤い血が零れて顎から喉元に、そして何故着ているのかも分からない学生服に 染み込んでいるのだろう。
本来、俺を影とするなら、奴が光なのは可笑しいのだろう。
何故なら俺には元となる『兄弟』がいるのだから。
しかし俺は、奴を光だと思ったことは無い。
しいて謂うならば、きっと似た者同士か、俺は奴の一部分に過ぎない。
元々同じだったものに、どうして差がつけられるだろう。
それを認めたがらない奴は、疎ましかったが、仕方の無い事だと思っている。
こんな、殺人衝動が己の中に巣食っているなど誰も認めたくは無いだろう?



「…………」



ただ、それすら認めない奴には腹が立った。
全てを拒絶されたら、何が残る。何も、残らない。
認めて欲しかったというのは、可笑しいのだろう。
生きている、なんて言われなくて良い。
ここに居ても良い、などという偽善はいらない。
ただ、ここに存在しているという認識をして欲しかった。
…………そんな事を考え出し始めてから、急に不思議なことが起こりはじめた。
夢に朧げだか何かの姿が見えるようになったのだ。
始めの内は分からなかったその影は日増しにその輪郭を濃くし、それを認識した時、俺は息を呑んだのを 覚えている。
死の奥底で溺れている時でさえ、忘れることの出来なかった男。
俺の中の全てを沸騰させ、揺るがす。
それを感じたときの俺の行動は言わずもがな、だろう。
だがそれは叶わなかった。足が動かなかったのだ。
まるで石化してしまったかのように足がぴたりと白い地面に張り付き、一歩たりとも動くことは出来なかった。
大体、その夢の中で俺は刃物すら持ってはいなかったというのに。
しかしそんな夢を何度か見続けていると次第に様々な事を試して見たくなって、色々と試行錯誤をした。
例えば、張りついてしまったかのように音の出ない喉で男を呼んで見たりすることであったし、唯一動く手で 男の方に手を振るようなそんな他愛も無い行動。
だが永遠に気がつかれる事はないのだと気がついた時、俺は自分自身に認められないという事よりもさらに 深い絶望感に包まれていた。
何処までも平行線で、届くことも交わる事も無い。
交わったとしても、きっとそれは一瞬の出来事で、奴はすぐに忘れてしまうのだろう。
何より、それが酷くこの頬を打った。
だがしかし、夢というものは本人が望んで止められるものではない。
何度も何度も見つづける夢に、俺は苛まれた。
白い世界にただ二人きりしかいないというのに、奴はこちらに一瞥もくれないのだ。
何時しか俺は諦めていた。
そうしてその代わり、そっと、遠くに映る男の影を指先で縁取るようになぞった。
もしも、俺に魔眼があれば、線が見えるだろうという位置を。
悪趣味だと人々はいうだろう。まるで、獣が獲物を遠くから眺めて、飛び掛らんと狙っている時のような、そんな光景。
だがそれは俺にはもっと深い意味を持っている。
何もかも紛い物の幻想が、唯一意味を見出した遊び。
馬鹿馬鹿しいと自分でも思いながらそれを続けていると、急に男がこちらを振り向いてその目でこの双眼を射抜いたのだ。
それが、昨日の夜の話。
そして今は、白くも無い世界で俺は横たわっている。



「…………軋…………間」



男は何処にいるだろう。
見上げた世界には、赤い幕が掛かった紺碧の空しか見えない。
でも、このまま眠りにつけるならば、一番幸せな夢が見られるような気がした。
充実した二分間、奴の目が俺だけを見ていたのだから。
漸く、俺自身を見ようとした奴に出会えたのだ。
これは甘えとも、いえるだろう。
自分に都合の良い言い訳をして、再び立ちあがるのを止めようとしている。
本当は、死ぬのが恐ろしい。
あの場所に戻りたくない。
ただの靄で良い、影でも良い、ここに生きていたい。
しかし、それは俺自身の思考に反するし、何より男に失礼だと思う。
一度目を伏せ、血に染まった顔を服の袖口で拭った。
目を開ければ、今一度、紺碧の空。
もう日が開けてしまう。
軋む脊髄に鞭を打ち、震える手で血に染まってしまった芝生を掴んで立ちあがる。
もはや致死量寸前の血液を垂れ流した体は真っ直ぐに立つことなど到底叶わず、ふらふらと行ったり来りを繰り返す。
手にはまだ、刃物が握られている。
まだ、握っていられる、という方が正しいか。



「………………まだ、……終わらないさ」



吹き飛ばされた時に付着したのだろう、目の前の芝生には点々と血液がまるでパンくずのように落ちている。
それを拾い集めるように俺はゆっくりと歩み出した。



-FIN-






戻る