24.忠誠を誓う




『……ッくそ』


ずくりと痛む腹を押さえ、近くの木の根元に座り込み背中を預ける。
此処に来るまでに嫌なモノにあってしまった為に、あの男に逢う前にこの体たらく。
こんな自分が酷く情けなかった。
しかし正直あの女の残滓とは言え、この程度の傷で済んでいる方が奇跡だ。
そんな事を考えているとじわじわと腹に滲んでくる赤い体液。
だが、これは本当に血液といえるのか、それすら分からなかった。
この体は全て幻で、この感情も作られたものだ。
だけれど何時からかこの全てが偽りの感情の中に何か別のものが生まれたのだ。
だから俺は全てを投げうつ覚悟でもって男の元へと向かうつもりだったのに。


(……こんな、ところで……)


そんな覚悟で無理矢理痛む体を引きずるようにこの森に来たは良いものの、その最奥に到達する前に体が言う事を聞かなくなってしまった。
此処まで来たのに俺はアイツに一目逢う事も無く再びあの暗く惨たらしい地の底を這い回るのか。
しかしあの世界にまた落とされるのは、もはや諦めに似た慣れを感じていて、正直大して構いはしていなかった。
男と戦ってその記憶を残したまま消え去れるのなら、何も構いはしなかったのに。


(……紅赤朱)


男の鮮烈な視線を思い返す。
たった一度だけ出逢ったあの男はきっと俺の事等忘れているのだろう。
記憶の中にあるあの視線に絡め取られてしまった俺ばかりが急いている。
……俺ばかりが男を求めている。


『…………』


そんなことを考えても何も変わらないのに。
余りの遣る瀬無さに何も感じない筈の胸がずくりと疼く。
泣きたくなるような気分というのはこういう事だろうか、と小さく苦笑した。
途端に視界が悪くなる、世界が反転していく。
いつの間にか俺の体は凭れ掛かっていた木から離れ、地面へと上体を横倒しにしてしまっていた。
ただ一目見るで良いなんて、まるで御伽噺のようではないか。
けれどそれだけ俺はアイツに焦がれている。本当に、馬鹿みたいに。


(こんな所で、死ぬのか)


嫌だと思えども何も出来ない自分に吐き気すら覚える。
それでももう動けないのだ。
無意識に腹を押さえていた両手が血に塗れている。


(……軋間)


そっと猫のように体を丸めて目を伏せる。
そうして俺の意識は闇に消えていった。



□ □ □



あの青い魔法使いが不意にオレに便りを寄越してきてから随分と経つ。
その文面には向こうの様子や元気であるという知らせの他に此方の様子を聞く内容。
そうして『予感』の話が其処には記してあった。
その予感とはあの子供についてのもので、文面には一年前のあの子供が再び現れる可能性が確実ではないが出てきたと書き記してある。
また、その他にも幾つか気になる点はあるが、とりあえずはそれを早急にオレに伝えたかったという事もそこには書いてあった。


『……』


オレはその紙面をこの手紙が届いてから何度も繰り返し読み続けている。
そうして今では文面の殆どを覚えてしまったくらいだ。
オレは何時ものように同じ部分を読み込んだ後、片手に持っていた手紙を床に置いてからもう片方の手に持っていた煙管を口に運ぶ。
ふかした煙管の煙が喉元を下っていく感覚は何時もと何も変わりない。
そのままふ、と吐き出した煙が天井に昇っていく様をジッと見据える。
あの子供が戻ってくる。そんな予感はオレもしていた。


『……七夜』


あの子供の姿を思い出す。
殺意に満ちた灰色の瞳、青い制服に煙掛かった髪。
赤いオレの炎に燃やされた子供はその獣染みた気配を押し殺す事無く潰えていった。
もう忘れかけていたあの気配。
忘れかけていた、あの子供の喰らいついてくるような殺意。
再び煙管をふかして煙の喉越しを味わう。
あれだけの殺意をオレに向けてくるモノは久しぶりだった。
そんな殺意はオレにとって酷く心地の良い物に感じられた。
あのジリジリと臓腑を焼かれていくようなそんな感覚。
他には到底味わえないような一瞬の殺意。


(……)


再び息を吐き出す。立ち上る煙を見上げた後に子供の顔を思い出していた。
そうして知らないうちに遠い目をしていたのを目を伏せて誤魔化す。
しかし目を伏せたせいでより精密になったオレの感覚が途端に何か見知らぬ気配を察知して思わず目を見開いた。
この気配は知っている、何度も思い返すようにしていたあの子供の気配。
……もう忘れかけていたあの子供の気配だ。
そうしてそれはオレが常に気を配っている場所から少し入ったくらいの所で留まっている。


『……行くか』


オレは煙草盆の中に煙管の灰を落として、煙管を煙草入れの中にしまい込む。
早く行かなければ。そんな思いが頭を過ぎる。
何故ならあの子供の気配が全くもって動いていないのだ。
此処に来た目的がオレに逢う為ならば、一切動かないのは可笑しい。
確かに奇襲を仕掛けるのならばかなり緩慢に動いても可笑しくはないだろう。
だがそれにしても、オレに気がつかれている時点でまずいのだ。
あの子供がそれに気がつかない訳はないだろう。
―――それだけではない、何か嫌な『予感』がするのだ。
上着を拾い上げ玄関口に歩みながらその上着を羽織る。
そして急がなければ、と考えながらオレは下駄を履き、扉から見慣れた森の中へと早歩きで進んでいった。



□ □ □



気配に近づいていく度に周囲の血の臭いが濃くなっていく。
オレは自分の予感が当たっていないことを願いながらも、確実に足の速度は上がっていた。
そうして木々を避け、少し開けた場所にその気配を発している人物が居た。
正確には腹から血を流し地面に横たわっている記憶と寸分違わぬ姿をした子供が。


『……おい!』


オレはそれが罠である可能性を微塵も考える事無く、ぐったりとした子供に駆け寄りその体を抱き起こす。
真っ赤になった子供の体は冷たくまるで死体のようだ。
しかしこの子供がまだこの世界に姿を残している以上、まだコイツの命は潰えていないのだろう。
このまま見逃してしまう事も出来る。オレの命を狙うモノだ、本来ならばそうするべきなのだ。
けれどオレの上着まで濡らす程の出血をしているこの子供をこのまま放置する事など出来なかった。


『……少しだけ我慢してくれ』


オレはそんな子供の体をそっと抱え上げ、自分の小屋に向かって走り出した。
体に一切の力が入っていない子供は思ったよりも軽く、その事実にまた焦る。
この子供のあの殺意すら見ていないのにこのまま彼岸に逝かせてなるものか、このまま 言葉を交わる事も無くこの子供を失って堪るものか、と心の奥から響く声に耳を傾けただ黙ってそれに従う。
その時のオレはまさに何者にも止める事の出来ない嵐のようだった。
そうして先ほどの半分程度の時間で小屋に着いたと思うと、そのまま真っ先に布団に寝かせた子供の衣服を脱がせ箪笥から引っ張り出した手ぬぐいで何かに裂かれたらしい腹に布を当て止血を施す。


『ッ……これではダメか……!』

『……ま……』

『七夜!』

『…………』


ぼんやりとした視線がこちらに向く。
しかしその力の無い瞳はすぐに瞼の内側に隠されてしまう。
このまま何も出来ずにコイツが目の前で消えていくのを見ているだけなのか?
やはりこの腕は全てを薙ぎ倒すのみの力しか持たないのか。
そんな絶望に陥りそうになった瞬間、オレの脳裏に読み返していた手紙の文面が思い出される。
―――あの魔法使いはこうなる事まで『予想』していたのか。
オレは慌てて居間に続く障子を越え火の灯っていない囲炉裏の傍に落ちている手紙を再び読み返す。


(……もうこれしか方法は無い)


オレはそう思うやいなやそれを行う為に再び子供の元へと向かった。



□ □ □



何か温かなものが体を満たしていく。これは一体なんなのだろう。
とても冷たかった体がゆっくりとその力を取り戻していく。
時間をかけて構築された体が再構築されていくようなそんな感覚。
それは真っ暗な闇から救い出されたかのような。
そこまで考えていると、俺を呼ぶ声を聞いた気がしてゆっくりと目を開けた。


「……」

「……七夜」

「……」


何処かに寝かされているのか、見知らぬ天井が頭上に見えた。
そのまま気配のする方向に顔を向けると此処に来るまでずっと思い描いていた男が座り込んで此方を見ているのを確認して、まだ自分が夢の中にいるのかとすら思ってしまう。
しかし男は何事も無かったかのように俺の頬を指先で撫でてくる。
そんな感覚にぼんやりとしていた頭が回り始め、次第に一体何が起こったのかを何となくではあるが理解してしまった。
その信じがたい事実に俺は動揺してしまって、俺は思わず目を見開いて男を見据える。
男はそんな俺を見ると一瞬気まずそうにしてはいるものの直ぐに俺に語りかけるような口調で囁いた。


「……目が覚めたか」

「……」

「……何があった」

「それを聞きたいのは俺の方だ……」


その言葉に男は何も答える事無く、今度は俺の髪を撫ぜてくる。
しかし俺はその腕を頭を緩く振る事で拒否した。
男はそれでも何もなかったかのように囁いてくる。
しかもその声は酷く優しく、つい男を見上げてしまう。
男が俺に対してこんな顔や声で語りかけてくる筈は無いのに。
そんな事はありえない筈だったのに。


「……分かっているのだろう」

「……勝手に結びなおしたな」

「それしかお前を助ける術を知らなかったからな」

「ッ……それでお前に何の得があるんだよ」

「そうだな」

「……可笑しな男だと思っていたが勘違いだったようだな」

「……」

「……馬鹿だよアンタ」

「……っふ」

「何が可笑しい!」


思わず僅かに声を荒げて男の腕を退ける。
ずきりと鈍い痛みが腹に走ったが、そんな事を気にしている場合ではなかった。
男が勝手に結びなおしてしまった契約は、俺ではもう外すことは出来ない。
俺は男に生かされている事になり、男は俺の主人になる。
男に闘いを挑みに来たはずなのに助けられる事自体が屈辱なのだ。
……男に忠誠を誓うなんて、そんな事は、有り得ない事だというのに。
そんな俺の逡巡を見抜いたのか男は笑いを引っ込めて、そっと髪を撫でてくる。


「……」

「オレは、お前と一度で良いから話をしたかった」

「……」

「……その為にこの方法を取るしかなかったのなら何の問題も無いだろう」

「……」

「本来ならお前に確認をするべきだったのだろうが、生憎お前の意識は無かったからな」

「……それは……」

「……お前がどう思っていたのかは分からない」

「……」

「それに大した興味も無い。……お前が嫌がってもオレはきっとこうしていただろう」

「……なに……」


俺はその真っ直ぐな視線に思わずたじろいでしまって、俺は寝かされていた布団から 腕を使って這い出ようと試みる。
しかしそんな事は無意味だと伝えるように俺を押さえ込みに掛かってきた男が上から覆いかぶさって来て、さらには男の指が俺の指に絡む。
その指は酷く熱く、そうして俺よりか幾分か太いそれは明確な意思を持って、俺を苛んでくる。
またもう片方の腕は俺の腰を抱いて逃げる事を許してくれない。


「……きし……ま」


小さく響いたその声に男は反応しない。
寧ろ俺を抱く力が強くなっただけ。
どうしてこうなってしまったのだろう。何が起こっている?
そんな思考をしている俺の耳の奥に男の声が柔らかく響く。


「……七夜、逃げるな」


その声にぞくりと背中に痺れが走ったのが分かって、俺は男の腕の中で悶えるように頭をゆるく 振る。
この男の声はまるで俺を絡め取る鎖だ。それとも蛇か。
どちらにせよ偽りの俺をこの世界に止めようとする男の声は酷く甘美で。
俺はどうしてこうなってしまったのか、それを思い出すために堪えるように目を伏せた。
しかしそんな事はもうこうなってしまったからにはどうしようも出来ない。
男を裏切る事ももちろん可能だろう。
だが男に酷い貸しを作ってしまったのは事実で、俺はそれが許せなかった。
何より男の意図が分からない。どうして男が俺の為に此処までするのだろう。
俺は確かに男に焦がれていた。しかし男にそれをするだけの理由があるとは思えない。
一体何を考えているか分からないから恐ろしいのかもしれない。


「……逃げていない……」

「……嘘をつくな……」

「……」

「……とりあえず今はどんな思いを抱いても良い」

「……」

「だがせめて安定するまではきちんと休んでいてくれ」

「……」

「……折角お前を助けたのだ、せめて一度は殺し合いをしなければ割にあわないだろう?」

「……っふ……」


その男の冗談じみた声音に思わず面白くなってしまって、顔だけを後ろに向けて男を視線をあわせる。
思ったよりも近くに居た男の顔を見て一瞬心拍があがるが、敢えてそれに気がつかないフリをして不敵に笑いかけつつ声をかけた。


「……確かにその為に此処まで腹を裂かれても来たんだから、それくらいはして貰わないとな」

「……」

「軋間?」

「……いや、……暫く楽しくなりそうな予感がしてな」

「……さぁ?アンタ次第だろう?」

「……善処しよう」


例えこれが男の気まぐれで、この良好な関係が今だけだとしても心地よさを感じてしまっている 自分を消すことはもう出来ない。
だからもう少しだけ、せめてこの体が安定するまでは此処に居よう。
これからの事はもう後で考える。それでいい。
俺は男に誘われるまま布団へと戻る。
男の匂いのする布団は思ったよりも上等な作りで、俺は今度は温かな闇に囚われてしまう。
こんなに近くに他人が居るのに眠気を隠せないのは疲れているのか、はたまた安心しているからか。
そんな俺を癒すように男の手がそっと髪を梳いていく感覚に思わず瞼が自然に下りていく。


「……よく眠るといい」


その安心させるような声音に俺は今度こそ柔らかな闇の中に滑り降りていった。



-FIN-






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