25.腕を組む




どうしてこのようになったのかは、思い出せない。
しかしながら、何時もとは違う男の雰囲気に俺はどうしたって心が躍るのを止める事が出来なかった。
少し先を歩んでいた男は立ち止まりゆっくりとその身をこちらに向けた。
沢山とは言わないがある程度人通りのある街の中で男は目立つのだからわざわざ此方にそこまで 気を使わなくても良いのに、と思う。
だが俺が男の隣に並ぶと、男は俺の肩に手をやり、少し困ったような顔をして呟いた。


「余り離れるな」

「悪い悪い」


俺は笑いながらその言葉に答える。
今日は男からの提案で『デート』とやらをする事になったのだ。
何故いきなりそのような事を言い出したのかは分からない。
だが男の照れたような顔と言葉に俺はどうしたって断る事等出来ずに、ただ黙って頷いたのだった。
そうして今の状態に至るのだが―――。


「……七夜」

「ん?」

「あの古書屋に寄っていっても良いか?」


男と暫く歩んでいると、不意に男が立ち止まり路地裏を指差す。
あの古書屋、というのは男の気に入りの店で街に来ると何時も寄っていくのだ。
森の中だとどうしても娯楽が限られてしまっているのだが、その中でも読書が男に とっては一番の娯楽に当たるらしい。
だからこそ街に下りた時は何冊か本を買って帰る。
俺は何時も通り頷いてやると、男はその答えを知っていたのか、再び歩み始めた。
何時もと変わらないというのにどうにも愉しそうな男が好ましい。


「行こうか」

「……あぁ」


俺はそう答え、その背を追いかけるように足を動かした。
暗い路地裏の中に歩んでいくというのに、心は酷く晴れやかだった。



□ □ □



「悪かったな、時間をとらせた」

「気にするなよ、最近街に降りてなかったし丁度良いだろう?」


男が申し訳なさそうに呟いた。
その手には何冊かの古書が入った紙袋が携えてあり、暫くは男の楽しみも無くならないだろう。
それに男の本を選んでいる時の顔が本当に愉しそうで、俺はそんな男の表情が見れただけで 良かったのだ。
そんな話をしながら路地裏から再び表通りに出る。
まだ日の光が道に降り注いでいて、平日の昼過ぎという事で人通りも少ない。
そんな誰もが落ち着いた雰囲気を醸し出しているこの状況はとても気が楽だ。


「さて、……何処か行きたい所はあるか?」

「特に無いな……お前は?古書屋以外に行きたい所とか無いのか?」

「俺も無いな……あぁ、そうだ」


俺がその言葉に首を傾げると、男は良い事を思いついたという表情で、俺についてくるように言い含めて から歩みだした。
俺はすぐに男の隣に並ぶように歩みだす。
一体何処に行こうというのだろうか、そんな興味を抱きながらも黙ったまま表通りを真っ直ぐ進み、そのまま 幾つかの横道を歩んでいく男の背を追いかける。
暫くして、街の中でも有名な大きな公園の入り口の前に出た。
男が来たかったというのは此処だったのだろうか。
この公園はこの町に住んでいた際には夜にしか近寄った事が無かった。
しかし何があるのかは知っていて、此処にはボートに乗れるような大きな湖があるのだ。


「軋間?」

「もう少し先に行こう」

「……あぁ」


そう言うと男が再び歩みだし、公園の中に入る。
今は夏も随分前に過ぎ、木々も美しい色に染まり始めていて公園内は春や冬には無い独特の色を 醸し出している。
その美しさに呼ばれるように何人かの人々とすれ違ったが、相手はその木々を見るのに夢中で 此方を気にしてもいなかった。
それに対して不思議と落ち着いた気分になるのはどうしてだろう。
そこまで考えて、俺と男に対して疑問を持たれないからだという事に気がついた。
人の目などどうでも良いと思っていたのだが、それでも否定されるのは余り心地よいものでは無いと いう事を知っているのだ。


「七夜」


ふ、とその声に目をやると急に男の手が俺の腕を取った。
温かな指先が服の上からでも分かる。
しかしこんな所で腕を組まれるとは思っていなかったので俺は振り払う事も出来ずにただただ 固まってしまう。
男はそんな俺に微かに笑いかけ、そのまま歩んでいく。
誰か来たらどうするのだろう、と思ったが誰も来なかった。
男は俺の手をとったまま、湖の傍まで歩む。


「……あ……」

「……あそこに座ろう」


男が指差したのは湖の近くにあるベンチだった。
俺がその言葉を理解したのが分かったのか、男は迷う事無くそのベンチまで歩み、俺を其処に座らせた。
そうして男は俺の手を掴んでいない方の手に持っていた紙袋をベンチの足元に置いてから俺の隣に座る。


「…………」

「綺麗だろう、……此処に来たのは久しぶりだったのだが」

「……そうだな」


男の声に微かに微笑みながら答える。
男には隠し事など通用しないという事が分かっている筈だったのに、どうしたって誤魔化そうとして しまうのだ。
だがこの温かい言葉に俺は自分の心の中の何かが少しずつゆっくりと融けていくのが分かった。
暫く互いに見えない位置で指を重ねる。
すると何処からか風に乗って甘い香りが漂ってきた。


「……何の匂いだろうな」


そう呟くと男が立ち上がり、少し待っているように言ってから何処かに行ってしまう。
俺はそれを見送ってから目の前の光を湛える湖を見つめる。
何処からか飛来した鴨や水鳥が心地良さそうに泳いでいるのはとても穏やかだ。


「…………」


静かな世界、誰も辺りには居ない。まるで人払いの魔術でも施したかのようだ。
そんな風に感慨に耽っていると此方に向かって歩んでくる男の足音が聞こえたので其方に 振り向いてみる。
すると男の手には予想していなかったものが握られていて、俺は思わず噴き出してしまった。
男は若干気まずそうにその手の中にあるものを此方に差し出す。
俺がそれを受け取ると男が先ほどと同じように俺の隣に座った。


「わざわざ買ってきてくれたのか?」

「あぁ……味は良く分からなかったのだが……これでよかったか」


俺は男が買ってきてくれたものを見てみる。
それは生クリームとイチゴ、後はブルーベリージャムが詰まったクレープで、正直俺は男が買ってきてくれたものならば何でも良かった。
なので俺は軽く笑ってその甘いものに口をつける。
これは一部の人間しか知らないのだが、俺は意外と甘いものが嫌いではない。
口に含んだ瞬間、甘い香りと共に生クリームの甘味が口いっぱいに広がる。
しかもただのくどい生クリームの甘さでは無く、イチゴとブルーベリーの酸味が丁度良い具合に 混ざって俺好みだ。


「……ふ……」


男が横で笑った気がしたので、俺は男の方に振り向いてみる。
男は穏やかな顔をしてその顔に笑みを浮かべていた。
口に含んだ分を急いで咀嚼し飲み込めば、男が柔らかな声音で囁く。


「……顔色が良くなったな」

「…………」

「いや、違うか……悩み事が解決したという所だろう?」

「……気がついてたのか」

「俺が気がつかないとでも思っていたのか?」


その言葉に先ほど理解したつもりだった事柄を思い出す。
男に隠し事など出来る筈が無いのだ。男は誰よりも俺を見ているのだから。
ここまで考えて、男が何故急に『デート』なんていう事を言い出したのか漸くわかった。
気がつかなかった自分もどうかと思うが、それほどまでに気が滅入っていたのかもしれない。
俺は自分の愚かさを隠すように手に持ったクレープに噛り付く。
やはりその甘さは変わらずにそこにあって、俺は何とも言えない気分に陥る。
だが全てを食べ終わる頃にはその何とも言えない気分も無くなり、くしゃりとクレープを包んで いた紙を握りつぶす。


「…………」

「七夜」

「なんだよ」

「…………」


俺は横から不意に伸びてきた指先に抵抗する理由が見つからなくて、ただ黙って見据えてやる。
一体何をするつもりなのか、と白々しく見ていると、素早い動きで俺の唇の上を舐めた。
流石に其処までは想像の範囲外だったので、慌てて男から離れ辺りを見回す。
そうして自分でも情けないくらいに掠れた声で言葉を紡いだ。


「だ……誰かに見られたら、どうすんだ……!」

「……さぁ、……其処までは考えていなかったな」

「……そこは考えろよ……」

「今はお前の事だけ、考えているからな」


っ、と息が詰まる。この男はたまに平気でこういう事をいうから困るのだ。
しかもその顔に一点の曇りも無く、言われたこっちの方が困ってしまう。
けれど男の曇りの無い愛の言葉に、元々人を信じるのが己が救われていないかといえば嘘になるの だから、面白いものだ。
どうしたって、俺は自分の役割を本能のレベルで植えつけられているから、それを無視して何かを 愛するのも不思議な心地がする。
其の上それはどうしたって憎むべき男に向けられた愛情で、他人から否定されてしまう事もある。
自分の心に嘘はついていない筈なのに、最近、ある人物に否定されてしまって柄にも無く自分の心が 揺らいでしまったのだ。
……自分の心や気持ちを一番に知っているのは自分だけだというのに。
だから男のこの心遣いが痛いほどに身に滲みて嬉しかった。
俺は辺りに人が居ないのを確認してから、不意打ちで男の頬に口付ける。
幾ら人が居ないとはいっても唇を合わせる気にはなれなかったが、これくらいは返すべきだろう。
しかし自分でやったとは言え、確かに顔が赤くなるのを抑えるのが出来なかった。


「…………」

「……もう少し此処に居ようか」

「……あぁ……」


男はそんな俺に気がついているだろうに、敢えて再び見えない位置で俺の手を握りこみ、黙ってしまう。
俺はその男の横顔を少し見遣ってから目の前に広がる湖に目を向けた。



-FIN-






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