ミモザの吐息




今現在、俺には兄が居る。
それは本当の兄では無く、寧ろ俺の影と言っても良い存在なのだが、奴がそれで満足しているのならそれで良いとさえ思っているのだ。
それで、奴が俺の事をかけがえの無い存在だと思ってくれるなら、それだけで良い。
そんな男と今日は会う約束をしているからこそ、あの厳しい監視の目を抜け、路地裏を一人歩んでいた。
もう流石に着込まないと寒くなってきた季節。
コートの前を掻き抱きながら足早に道を進む。
そうして少し遠くに見えてきた人物の姿に自分でも驚くくらいに頬が緩むのを感じた。
しかしそれを余りにもストレートに出すのは気味悪がられると思ったので、一度空咳をしてから何事も無かったかのように声をかけようとしたのだが。


「よう」

「……なんでそんな寒そうな格好してるんだよ」


其の前に待たせてしまっていた人物の方から先に声をかけてきてくれたので、それに答える。
そうしてその言葉を言いながら、俺はガードレールに寄りかかっている俺と同じ顔をした青年に対し自分の巻いていたマフラーを外し、巻いてやった。
その灰色のマフラーは何時も俺が着ている制服と同じ物を着ている青年によく似合う。
青年はそんな俺の動作をさも当然のように受け入れ、巻かれたマフラーに顔を埋める。
ふとその青年の指先を見ると赤くなっていて、その寒そうな指先を思わず握っていた。


「…………」

「……なんだよ」

「いや、結構待っただろ?凄く冷たいぞ」

「…………別に、そんな待ってない、けど……」


気恥ずかしかったのか、目の前の青年……七夜はその顔を逸らした。
その分かりやすい反応に思わず噴出しそうになってしまうが、それは流石に七夜の機嫌を損ねてしまう事になるだろう。
わざわざ屋敷を抜け出して七夜に逢いに来たのだから、此処で機嫌を損ねるわけにはいかない。
それについ最近漸く普通に話が出来るようになった上に、こうして逢うことも許されているのだからなるべく愉しい時間を過ごしたいのだ。


「……ごめんな、早く行こう?七夜兄さん」

「……兄さん……」

「あれ?最近こういうのが良いんじゃなかったっけ」

「……良いというか、……まぁ、……」


俺は口ごもる七夜の指先をさらに絡めとり、手を繋ぐ。
慌てた七夜は一瞬嫌がるように身を捩ったが、こんな真夜中にこのような薄暗い道にいる人間もそうそう居ない為諦めたようだった。
何時ものようにその冷たい指先をしっかりと握りこんで、誰にも会わないような道を通り公園へと向かう。
その間、七夜は一切話をしなかったが、冷たい指先が段々とこちらの熱と溶け合い温まるのが分かってそれだけで充分に満足できた。


「……なぁ、志貴?」

「んー……?」


あと少しで公園に着くという場所にある信号機が赤になり、二人で立ち止まっている際に急に七夜が俺の名を呼ぶ。
さらに其の上、くい、と手を引かれて俺は振り返る。
街灯の明かりと月の光で照らし出された七夜は何だか妙に愉しげな表情をしていた。
その表情にコトリと心が動いたような気がして、俺は敢えて黙り込んだままその顔を見遣る。
とっくに信号は青になっていたけれど、まるで石化されたかのように七夜の顔を見詰めた。


「……」

「……」

「……」

「なんだ?」

「…………」


続く沈黙に耐えられず、そう聞くと七夜の手が離れる。
機嫌を損ねてしまったかと思っていると、急に七夜の指が狐のような形になり、俺の額を弾く。
……余りにも突飛過ぎて避ける事すら出来なかった。


「!……いった……」

「兄貴には敬語、使えよな」

「……なんだよそれ……いまさらだなぁ……」

「うるさい」


そう言って七夜が再び俺の手を取り、先行して丁度青になった信号を渡る。
単純に俺に引っ張られていたのが気に食わなかったようだ。
俺はそんな七夜の子供っぽい一面を垣間見て、笑いを堪えるのに必死になってしまう。
最近の七夜は何処で覚えたのか『兄』という立場に憧れているようだ。
そうしてあれやこれやと俺に我が侭を言うのだが、最終的には世話を焼いてくる。
それがこちらとしては可愛らしくて仕方が無いのだがそれを言うと七夜が怒ってしまうので言えない。


「……」

「七夜、ちょっと待って」

「何だよ」


俺はそんな事を考えながらただひたすら七夜の後をついて歩いていたのだが、少し遠くに人工的な灯りが見えてそれを指差し立ち止まる。
七夜はいきなり立ち止まられたのが不満だったようだが、こちらの指の先にあるものを見て首を傾げた。


「なんだ?喉渇いたのか?」


その言葉が示すとおり、その指の先にはジュースの自動販売機と薄汚れたゴミ箱が置かれていた。
俺がその言葉に頷くと七夜はそっと今まで進んでいた方向では無く、自動販売機の方へと向かう。
俺は再びその手に引かれるように後ろを着いて行く。
間近で見る自動販売機はその光に誘われた虫が何匹か止まっていたり、飛び回っていたりしたので、俺は無意識に繋いでいないほうの手でその虫たちを払う。
しかし七夜はさして問題だと思っていないようで、不思議そうな視線でこちらを見ていた。
なので俺は七夜に対し声をかける。


「それで?何にする?寒いからコーンスープとか?」

「?……お前が喉渇いたから買うんだろ?」

「それもあるけど、俺だけ買うのは悪いし」

「……でも俺、金持ってない」

「そういう所は遠慮するんだな」


冗談じみた口調でそう言ってやると、七夜がむっとした顔をして、俺の指先を強く握る。
しかしそこまで痛くも無いので肩を竦めてやれば小さな舌打ちが聞こえてきた。
そうして七夜も自動販売機のサンプルを見て選び出したので、内心安堵する。
こうでも言わないと中々七夜は何かを口にする事は少ない。
それは好物であるアンパン以外は殆どそうなのだ。
幾ら摂取する必要が無いと言っていたところで、食の楽しみを持っているのだからなるべくなら食べるべきなのだと思う。
それは俺の押し付けであるのかもしれないが、それでも、七夜には人間らしく生きてみて欲しい。
今すぐにでも消えてしまいそうな七夜を見ていて何時でもそう思うのだ。
まるで此れでは黄泉戸喫の逆パターンのようだ、と笑ってしまう。けれどそれでも良い。
七夜が俺の傍に居てくれるなら、それだけでいい。


「志貴」

「……ん、ごめん、ボーっとしてた」

「…………」

「……七夜?」


七夜は一瞬だけ複雑そうな顔をしたが、すぐにその表情を消し、サンプルの一つを指差す。
それは砂糖とミルクが入ったコーヒーで。
なのでポケットに手を突っ込み、適当な額の硬貨を投入する。
すると一斉にボタンが光を放ち、まるで『自分を買ってくれ』と主張しているかのようだ。
だがその幾つかの光を無視して缶コーヒーのボタンを押す。
ゴトリ、と音がして缶コーヒーが取り出し口に出てきたのが分かったが、再び光っているボタンを押し缶コーヒーを注文する。
そうして取り出し口から二本の缶コーヒーを取り出し、七夜に手渡そうとすると、何故か七夜の手が離れる。


「?」


疑問符を浮かべている俺を横目に七夜は出会い頭に巻いてやった俺のマフラーに手を掛け外そうとしていた。
それを止めようかとも思ったが、その前に随分と長いそのマフラーの一端が俺の首に掛かったのが先で。


「お前が風邪引くと、……困るから」

「……でもこれ歩きにくくないか?」

「!」

「まぁ、いっか」


瞬時に顔を赤くした七夜に気を良くして、俺は離れてしまった指先を再び繋ぐ。
お互い片手には缶コーヒー、もう片方は相手の手の温度を感じている。
そうして今度は二人で一本のマフラーを巻いていて。


「七夜兄さん」

「…………」

「…………ハハ、何、照れてんの?」

「……煩い弟だな、志貴」

「……なぁ、今度これでシようか」

「何を?」


俺は耳元で今考え付いた素晴らしい提案を囁いてみる。
すると七夜が思い切りこちらに振り向き、恐ろしい形相をしてみせたので、俺は苦笑いをしながら慌てて七夜の手を引き何時も行く公園の方へと足を進めた。



-FIN-






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