庵の外で鳥が囀る声がする。
少し前に朝餉を済ませたオレはそれらの片づけを終え、一人火の点されていない
囲炉裏の前で考え込んでいた。
昨日の出来事を思い返してみたが、やはりあれは夢としか思えない程に不思議な出来事だった。
本当にあの餓鬼は今日もこの森に来るのだろうか。
その言葉が本当だったとして、オレはどうするべきなのだろう。
当然の事ながら自分以外に誰も居ない庵でオレはため息を吐く。
そうして傍らに置いてあった煙管入れに手を伸ばすと、中に仕舞い込んでいた煙管を取りだし、葉を詰める。
「……ふ……」
その葉を詰めた煙管に火を点し、煙管を燻らせる。
ほろ苦い香りが肺を満たすのを感じると共に煙がそっと空に立ち昇るのを見詰めた。
その薄ぼんやりとした紫煙の中に餓鬼の笑みを思い出す。今日は昨日同様に非常に良い天気だ。
きっと外に出て座禅を組み、書籍を読み込むにはうってつけだろう。
だからこそ昨日の餓鬼の空言に振り回される訳にはいかない。
例え本当にあの餓鬼が来たとしても、不審な動きをしてきた場合はすぐさま対応すれば良いのだ。
そう脳内で結論付けたオレは煙管の火種を落とさぬようにしながら、燃え尽きた葉を落とし、少しだけ葉を足し直す。
もう少ししたら足りなくなってきた薪を継ぎ足すなどの作業をしてから昼餉の準備をしなければならないだろう。
そして昼餉を食べたら昨日と同じように森まで出掛けるようにしよう、とそんな一日の予定を立てたオレはふわりと唇から紫煙を再び吐き出した。
□ □ □
「よお」
誰かが草叢を踏みしめ、此方に近づいてくる。
しかし目を開けずにいると焦れたような声が此方に投げ掛けられた。
漸く目を開け、顔を上げると昨日と同じ格好をした餓鬼が不満げに此方を見詰めている。
しかもその腕には茶色の紙袋が携えられていた。
オレは本当に餓鬼が来るとは思っていなかった為に、一瞬、呆気に取られてしまうが直ぐに餓鬼を見詰め、声を掛ける。
「……また来たのか」
「昨日言っただろ?聞いてなかったのか?」
昨日と同じようにオレより少し離れた場所で立ち止まった餓鬼は此方を見ながら肩を竦め、ため息を吐いた。
そうして遠目から見ても分かる細いその髪は柔らかな日差しによって煌いている。
「まぁ良いけどな……ほら、此れ土産」
「……」
「此処置いとくぞ」
「……?」
このままオレの方に近づいてくると思っていたが、餓鬼は手に持った紙袋をそっと草叢に置く。
そうして紙袋より僅かに離れた餓鬼に疑問の視線を投げ掛けると、餓鬼はオレの意図を読み違えたのか苦笑しつつ言葉を紡いだ。
「本当はアンタの好物でも買ってやろうなんて思ってたんだが、考えてみたら俺、アンタの好物なんて知ってる筈無かったんだよな」
「……」
「だからとりあえず試しに俺の好物買ってきた。……ま、気に食わなかったら捨ててくれ」
「……」
「それじゃな」
そう言って一気に捲くし立てるようにした餓鬼はその身体を翻し、帰ろうとしてしまう。
餓鬼の考えている事が全く以て分からなかったが、オレは思わずその青い学生服を纏った薄い背に声を掛けていた。
「おい」
「……ん?」
「……何を考えている」
「だってアンタ、流石にこれ以上俺が近づくの嫌だろ?」
オレの声掛けに渋々といったように再び此方に振り向いた餓鬼は不思議そうに首を傾げた。
まさかそのような殊勝な台詞が餓鬼から飛んでくるとは思っておらず、意外に思ってしまう。
だがそんな感情を出さないようにしながらオレは草叢に置かれた紙袋を見詰めつつ囁いた。
「……其れは貴様の好物なのだろう」
「まぁ、……そうだけど……」
「……ではお前も食べなければ意味が無いではないか」
「……え?」
オレは自分でもどうかしていると思いながらも、少しだけ座っていた場所より身体をずらし餓鬼に視線を向ける。
すると餓鬼が目を丸くしてから何度か瞬きをして此方より視線を逸らした。
もしかしたらこの土産に毒でも入っているのかと、ふとそんな事を思ったが、そうでは無いらしく再び顔を上げた餓鬼はゆっくりと地面に置かれた紙袋を拾い上げてからそっとオレの前まで歩んでくる。
そのままオレの空けた場所に座り込んだ餓鬼は何処か不貞腐れた様子で呟いた。
「……アンタ危機感無さすぎじゃないのか。……俺のが気を使っているなんてさ」
「……例えお前がオレを殺そうと動いたとしても一手だけでオレは殺せない」
「……」
「そうしてその一手を受けている間にオレはお前を殺す事が出来る」
「……ふん、……まぁ、良いや」
オレの言葉に鼻を鳴らした餓鬼は手に持った紙袋をガサガサと音を立てて開き、その中に入っている白い紙に包まれた丸い物質を取り出す。
そうして其れを此方に差し出してくるので紙ごと受け取り確認すると、其れは軽く黒ゴマのまぶされた餡パンだった。
だが一般常識として名前は知っていても自ら食べようなどと思った事が無く、今まで口にした事は無い。
「……」
「餡パンって言うんだけど……知ってるか?」
「……此れがお前の好物か」
「此処の店の餡パン結構美味いんだよ、安いし」
「……」
そう言って自分の分も取り出した餓鬼は周りの紙を退かしつつ其れに何の躊躇いなく噛み付く。
そうしてその表情がまるで年相応の子供のように何処か柔らかくなるのが隣でも分かった。
そんな餓鬼を見ていると、餡パンを飲み込んでから唇についたパン屑を空いた親指で拭った餓鬼はまた不貞腐れた様子に戻ってから呟く。
「……言っておくけど俺は美味いものに毒を入れるような事はしないからな」
「……いや、……其れを気にしている訳では無い」
「……」
「ただ、随分美味そうに食うと思ってな」
有りの侭感じた事を呟くと、餓鬼が何故か微かにその頬を染め顔を逸らす。
こんなにも傍で餓鬼の姿を見る事になるとは思ってもいなかった上に、まさかこんな昼間にこの森で二人並んで餡パンを食べる事になろうとは考えてもみなかった。
オレは隣に居る餓鬼に倣って手に持った餡パンを口元に運ぶと、其れに噛み付き咀嚼する。
少し時間が経ってしまっているようだったが、その皮も中に込められた餡も美味だ。
「どうせなら茶も持ってくるべきだったなぁ……この餡パン美味いんだけど喉渇くの忘れてた」
「……」
「……」
「……」
「……なんか言えよ、……美味くなかったか?」
黙ってその味を堪能しているオレを覗き込んできた餓鬼の瞳には不安げな色が宿っている。
オレはその言葉に直ぐには答える事をせず、驚く程に澄んだ青い空とその下に広がる瑞々しい緑を視界に納めながら答えた。
「初めて食べたが……美味い物なのだな」
「……」
「この景色にも良く合う」
其処まで答えてから餓鬼の方に振り向くと此方を覗き込んでいた餓鬼の不安げな瞳が嬉しそうに細まるのが分かる。
正直、素直に感想を伝えるのが果たして本当に良いのか判断がつかなかったのだが、
餓鬼が此方に土産を携えてきた以上、礼を言うのは当然の事だろう。
……其れに本当にこの餡パンは美味かった。
「!…………なら良いんだけど」
その答えに満足したのかそう囁いた餓鬼は自身の手に持った餡パンに再度噛り付く。
美味いものを食べている時はどんな間柄でも黙り込んでしまうというのは本当の事なのだとオレはそんな普段は思いもしない事を食べながら考えていた。
「……」
「……なぁ」
餓鬼が先に食べ終え、手に持っていた紙で手を拭ってから紙袋にその紙を仕舞い込みながら此方に囁いてくる。
オレは残っていたパンを口に入れ、紙で手を拭うと餓鬼が紙袋を差し出してくるので其処にその紙を入れた。
そうして此方を見てくる餓鬼に視線を向けると屈託の無い笑みを浮かべた餓鬼が囁く。
「アンタの好きな物って何なんだ?」
それを聞いてどうする、という問いは餓鬼の笑みを見ている内に無意味だと
いう事に気がつく。
初めは隣に座らせる気も無かった筈なのに、こうして隣に座らせてしまった
時点できっとオレはもうこの駆け引きに負けている。
だからといって完全に信用するなどというのは有り得ないのだが。
「……強いて言うなら酒だ」
「酒?……日本酒とかって事か」
「……嗚呼」
「ふーん……アンタ並の酒じゃ酔わなそうだよなぁ」
「……」
「……さて、……」
不意に立ち上がった餓鬼はその尻を片手で払ってから此方に振り向いた。
その姿を見上げると紙袋を持ったまま此方に微笑んだ餓鬼が言葉を紡ぐ。
餓鬼の背に丁度日の光が当たり、影になった餓鬼の瞳に映った感情を伺い知る事は
出来なかった。
「もう帰るとするかね」
「……」
「明日も来るよ、紅赤朱。……酒を手土産に出来るかは分からないけど」
「……そうか」
「……文句、言わないんだな」
わざとらしくも思える餓鬼のその台詞にオレはため息を吐く。
例えもしオレが此処で嫌だと言ってもこの餓鬼は引くような玉ではないだろうに。
「……勝手にしろ」
唇から洩れ出た言葉に自分でも内心意外さを感じるが、
其れを表に出す事はせず餓鬼より視線を逸らす。
「……っふ、……そっか、じゃあ勝手にさせて貰うよ」
そう呟いた餓鬼がそっと草叢を踏みしめ帰る後ろ姿を顔を上げて見送る。
その姿が完全に見えなくなったのを確認してからオレは上着の懐から読み掛けの書籍を取り出し、栞を挟んである部分を
開く。
麗らかな日差しに心地よさを感じながら、口の中に残っている微かな餡の
味に何とも言えぬ感情を覚えていた。
――→参
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