「……いて……」

「……大丈夫か?」

「大丈夫だ」

「……帰ったら手当てをしよう」

「……別にそんなのいらないよ」

「……オレが気にする」

「全く、アンタも心配性だな……それに此れは当然の報いってやつだ」


微かに薄暗くなり始めた森の中、俺は微かに腫れた頬を摩りつつ、男と共に山道を登りながらそんな会話をする。
あの夜からこうして男に生かされている俺はあれから一週間程経過した今日、漸く町に下り、あの少女達に会いに行った。
そうして当然の如く、頬に一発と、大量の皮肉と、涙を貰ってきたのだ。
最終的にはどうにか少女も落ち着き、認めてはくれた。
まず何よりも俺が生きていたという事実が、大切なのだとそう帰り際に寂しそうにだが、確かに笑っていた少女の顔が今でも鮮明に思い出せる。
俺はきっと暫くはその笑顔を忘れる事など出来ないだろう。
それは男も同じようで、暫し黙っていた男はぽつりと呟いた。


「……今度は土産でも持って行くべきだな」

「……あぁ」


俺はそんな男の冗談染みた口調に苦笑を浮かべながらさらに森の奥深くへと進んでいく。
一年前も、そうしてあの夜も本当に急いでいたものだから大して苦労した覚えなど無かったが、この森を毎日抜けて俺の元へやってくるのは相当に骨が折れただろう。
それでも男は何事も無いかのような顔をして俺の所へ来てくれていた。
俺はそれを理解して、隣に居る男に視線を向ける。
すると男はその視線に気がついたのか、その隻眼に柔らかな光を点しながら此方を見遣ってきた。
こうやって男と見詰め合うのも、傍に居る事にもいい加減慣れ始めても良い頃合なのに、やはりまだ気恥ずかしさの方が勝ってしまう。
なので俺はそっと男から視線を逸らす。
しかし男はそれに対して抗議するかのようにその手を伸ばして、俺の手を掴んだ。


「!……おい……!」

「どうした?」


慌てて男の方に視線を戻すと、してやったりといった表情で男が笑っていて、俺は内心舌打ちをする。
どうせ此処に居るのは男と俺だけだから問題も無いと言いたいのだろう。
男はこの一年で随分と変わったようだ。
……それは勿論、俺にも言える事ではあるのだが。
俺はただ黙って男にされるままというのも癪だったので、敢えて指を絡ませ、強く男の手を握りこむ。
そうしてそのまま男の手を引き、山道を登っていく。
大分進んできたからもう少しであの丘の入り口辺りにたどり着くだろう。
そう思いながらただ黙って男の手を引きながら薄暗い森を進む。
男の手から伝わる熱は何処までも俺に染み渡ってくるかのような温度で。
その温度が余す事無く俺のモノなのだと、そんな事を思い出して、弧を描きそうになる口元をどうにか抑えた。
今は男に顔を見られる位置ではないが、きっと男は俺の考えている事など全て分かってしまうに違いない。
だからこそ、幾らなんでも一人でにやけているなんてバレる訳にはいかなかった。
土を踏みしめながら木々の隙間を行くと、眼前にあの丘が見えてくる。


「……月が……」


俺はそのまま男の手を引き、足元にある草を踏みしめながらそう呟く。
丘の向こうには微かに欠けた月がぼんやりとした姿を遥か彼方に映している。
そうして俺の隣に居た男もまた、黙ってその光景を見据えているようだった。
別に何も代わり映えのない景色、けれどこの景色をもう一度男と隣り合い、見ていられる。
それは一体どれほどの確立で起き得る『奇跡』だったのだろう。
俺は男と繋いでいる手にさらに力を込める。
すると男はそれに応えるように俺の手が痛まぬ程度の力を込めてきた。


「……七夜」


不意に男が俺の名を呼ぶ。
俺はその声に導かれるように男の方を向いた。
そうしてそんな俺を見守る男の髪を僅かに吹いた風が揺らしていく。
その光景に見惚れている自分を感じながらも、男の言葉を待つ。


「……」

「……また来年の今日も同じようにこの丘に来よう」

「……」

「……そうして、またこの月を見ながら酒盛りでもして、あの庵に帰る」

「……」

「……どうだ?」

「…………それは、素晴らしい案だな……軋間」


男のその言葉に俺は揺れる髪を空いている方の手で押さえながら答える。
そしてそのままその前髪を押さえていた手に触れてくる男の手を黙ってみていると、そっと男が顔を近づけてくるので軽く目を伏せた。
薄い粘膜が羽毛のような軽さで触れてくるその感覚に、俺は身を委ねる。
そうして唇を離した感覚がしたので目を開けると、目の前には変わらずに微笑んでいる男が居て。
―――両手から伝わってくる男の熱に、俺は生かされている。男と同じように、此処に存在している。


「……さて、……」

「……」

「……帰るか、七夜」

「……嗚呼」


暫し見詰め合っていたが、そっと男が繋いでいた片方の手を離し、もう片方の手を引く。
今度は男が俺の手を引く番だというかのように男はそっとその衣服をたなびかせながら、俺を先導する。
……あの庵に男と共に帰ろう、何故ならあの場所が俺たちの居場所なのだから。
俺は男の手に導かれるままに丘より背を背け、庵へと続く道に戻ろうと足を踏み出す。
そうして背にぼんやりと輝いている月の光を受けながら、俺達は静かに微笑んでいた。



――完――






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