手負いの獣は幸福な夢を見るか?2



――――2


 ――――ここはどこだ?
 真っ暗で周囲は何も見えないが、子供の頃、路上生活を強いられていたスオタモの路地裏のような重苦しい雰囲気と息苦しさにクリプトは口を開いてどうにか息をしようともがく。
 肺にうまく空気が取り込めない、と首につけられた金属デバイスに触れるが、それは変わりなくそこに設置されている。
 ならば自分の肉体が空気を受け入れる事を拒んでいるのだろうと必死に深呼吸をして酸素を取り入れようと試みる。
 しかし逆に呼吸をしようとすればするほどに苦しさは変わらず、助けを求める為に暗闇の中で瞳を動かすとまるで本人が発光しているようにハッキリと浮かび上がって見える何人もの見慣れた姿を発見する。

 それはクリプトが【APEX】という血塗られた【ゲーム】で得た筈の仲間たちだった。
 どうか助けてほしい、と声をかけるよりも先に彼らの目が冷たくクリプトを睨み付ける。
 猜疑心に満ちた目、まるで犯罪者や裏切り者に向けられるその視線をクリプトは何よりも熟知し、そうして恐怖していた。

 『違う……違うんだ……』

 言い訳めいた言葉を並べているクリプトを醒めた目で見てくるワットソンの傍に近づこうと足を動かすが、距離は縮まる事が無い。
 そればかりかドンドンと離れていく彼女の影に絶望感を覚えた。
 世界が再び誰の姿も見えない暗闇に満たされ、誰の物かもわからないたくさんの目がこちらを見つめる。
 視線、視線、幾万の瞳……監視されている。見張られている。疑われている。
 俺を罪人だと糾弾するようなその世界は恐ろしさばかりを伝えて、カケラの体温すらも奪う。
 こんな風になるなんて思ってもいなかった。

 『俺はスパイなんかじゃない……信じてくれ、……みんな……』

 頭を抱えしゃがみ込むが、沢山の視線が降り注がれる感覚が消えない。
 指名手配犯として世間に公表され、どれだけ無実を訴えようとしても無駄だった。
 だからこそこんな風に仕立て上げた黒幕を見つけて、俺の人生を壊した代償にめちゃくちゃに破壊してやろうと全てを捨ててこの【ゲーム】に参加した。
 それなのに今度はここでも罪を着せられてしまうのか。
 ふと足元に見慣れた靴先が見え、そのまま縋るように視線を上に向けると黄色の生地が見える。
 コイツは、コイツだけは俺の事を信じてくれるだろうか。

 『クリプト……お前、裏切ったんだな』

 しかし、ヘーゼルの瞳が薄暗い色を宿し、こちらを見ながらそう囁く。
 コイツにだけはそんな顔をされたくなかった。ミラージュ、違うんだ、俺は。
 そう言う前にクリプトは急速に意識が浮上する感覚に身を委ねた。

 「っは、……はぁ、……は……!」

 全身を支配する倦怠感と寝ている間に掻いていた汗で冷え切った肉体を飛び起きさせたクリプトは、荒い息をゆっくりと整えてから寝室の壁にかけられた電子時計に視線を向ける。
 まだ時刻は午前2時で、明日は【ゲーム】があるからと眠れない体を無理矢理ベッドに押し込んだのが0時を過ぎた辺りだったので2時間ほどは眠れたのだろう。

 今までの悪夢よりも一段と酷い内容だったと、もう眠れそうにない体をベッドから立ち上がらせたクリプトは住み慣れた真っ暗な部屋を手探りで移動する。
 そうしてドアを抜けてダイニングの中に併設されたキッチンに向かうと、そこにある冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを手に取り震える手でそれを開けて飲む。
 冷蔵庫の中にはそれ以外に大して食べられる物も入っておらず、そもそも食欲も感じていないのでクリプトはここ数日マトモな食事を摂っていなかった。
 食べようと何度か挑戦するものの、胃が食物を受け付けないのだ。

 (またシャワーを浴びないと……)

 寝間着として着ているTシャツとスウェットが汗によって重さを増しているのを忌々しく思いながらも渇いた喉を潤してくれる冷たい水が胃に注がれる感覚に、少しずつ冷静さを取り戻していく。
 冷静さを取り戻すうちに、クリプトは自分自身で認めたくない現状を再び思い出してしまった。

 自身のドローンが急にレヴナントの声を発しながら友人であるナタリーを襲った。
 ハックのシステムセキュリティーに不備があったというのが信じられないのと同時に、こちらを見る周囲の目が変わったのもその時すぐさま理解出来た。
 レヴナントに情報を流しているスパイなのだと周りからそう思われてしまった。
 本当にそんな事はしていないし、ナタリーとは良い友人関係を構築していた最中で、彼女の天才的な頭脳に尊敬の念すら抱いていたのだ。

 しかし、これは冤罪だとどれだけ主張しても目の前で起きた出来事を否定出来ないのは確かだった。
 何人もの目撃者がいる事が逆にクリプトにとっては、不利な状況となっている。
 そんな中で冤罪だと言ったところで信じられる人間など少ないだろう。
 もしも自分が同じように他の人間が疑われた時にその主張を信じられるかと言われれば、難しい。
 そうして、事実こちらもそれを証明する手立てがない。

 何度もドローンの解析や分解を行ったが、例え事前にハッキングされたというログが残っていたとしてもそれを証拠として出した所で、ただの自己弁護に過ぎないのも良く分かっていた。
 八方塞がりとはこの事か、と何度苦悩したか思い出せない。
 そのうち自分のメンタルがおかしなことになっていくのを理解しながら、クリプトはどうしてもそれを修正する事が出来なかった。

 それだけこの【APEX】に参加している【レジェンド】達にいつの間にか親愛の念を覚えていたらしい。
 家族を失い、名を捨て、姿を変えた【クリプト】を受け入れて貰っている。それは例え血塗られた【ゲーム】内のイカれた連中だとしても、心地が良かった。
 仲間の一員として認められている。ただそれだけで自分の存在を肯定されているような感覚。
 けれどそれが一瞬で全て崩壊するのを目の前で見せつけられたのだ。
 こんな風にまた信じた者達を失い、自分は追われながら生きていくのだろうか。
 安息の地はもうこの世界のどこにも無いのかもしれないという仮説が、まともな思考を奪っていく。

 (……ミラージュ)

 だが全て崩壊した、というのは間違いかもしれないと脳裏に過ぎった男の名を思い出す。
 アイツだけは周囲に裏切り者の烙印を押されかけている俺を唯一、あり得ないだろうと笑い飛ばして庇ってくれた。
 あの地獄のような空間で後から現れたアイツだけは、俺に当然のように救いの手を差し伸べてくれた。
 それなのに、今はミラージュを利用してしまっている、とクリプトは昨日も穿たれたばかりの自身の腹を擦った。

 もう何度奴に自身の体を凌辱させたか分からない。
 本当はこんな風になるつもりなど無かったのに、ミラージュの優しさに甘えてしまっているのだ。
 奴がヘテロなのは理解していたし、クリプト自身も男に抱かれるような趣味を持っているわけではない。
 ただ、連日見続ける悪夢から逃れたくて、何もかも忘れてしまうような行為に溺れたかった。
 痛みを伴った行為はその痛みでしばらく意識をそちらだけに向けていられる。

 正直、ミラージュの性欲処理程度になればいいと思ったのだ。
 こちらが抱かれる事で向こうに与えられるメリットなどその程度しかない。
 だから声を出来るだけ殺し、男を抱いているという事実を少しでも薄れさせようとしているし、視線に恐怖を覚える自分の目を塞いだ。
 そうすれば同情心で付き合ってくれているであろうミラージュの気持ちも少しはマシになる筈だと思っていた。
 いっそのことあの日、気持ちが悪いと吐き捨てて貰えればこんな風にはならなかっただろう。
 それでもあの男はそうしなかった。

 それだけミラージュという男は優しい人間なのだという事が分かる。
 本当はもう縋るのを止めて、アイツを解放してやらなければならないのだろう。
 実際、何度連絡をするのを止めようと思ったか数えきれない程になっていた。
 もう子供では無いのだから、悪夢を見る度に苦しさから連絡をしてしまうなど愚かな話なのだと自分に言い聞かせているのに、どうしたって我慢しきれず連絡をしてしまうのだ。
 ミラージュのスケジュールまでネットワークを駆使して確認し、そこまで忙しくないだろう日をわざわざ選んで連絡してしまう自分が嫌になる。

 ――――もしもこれで断られたらもう止めにしよう。
 そう思って送るメッセージに必ず返ってくる『了解』の二文字がどれほどこちらの心を安心させるのかミラージュは気がついてもいないのだろうなと思う。
 まだ俺を受け入れてくれるのだとその二文字だけで、その日一日が救われたような気分になるのだ。

 依存していると言われればそうなのかもしれない。
 こんな風になるつもりなど無かった。
 最初はただ忘れたかっただけで、向こうもきっとすぐに男を抱くなんて苦行が嫌になってしまうだろうと思っていた。
 どうせそのうちに呆れられて、本当に夢の中の出来事が起こるのだろうとそう考えていた。
 その前に早くこんな事を止めなければならない。

 そのつもりだったのに、抱かれる度にこの体は少しずつ快楽を拾い集めてはミラージュの体温を望んでしまう。
 乾いた広い掌が体を労わるように撫でる時、その体温の高さに興奮を覚えてしまう。
 そんなつもりじゃないと思っても、優しい手付きに縋りつきたくなる。
 そしてまたその温かさが欲しくてたまらなくなって、ミラージュに連絡をしてしまう。

 「本当に……嫌になるな」

 自嘲めいた笑みを浮かべながら光も射さない空間で一人クリプトが囁いた言葉は誰にも聞かれる事無く闇に溶けていった。

 □ □ □

 栄養と睡眠を殆ど与えられていない肉体が悲鳴をあげている。
 案の定、あのままベッドに戻ったものの一睡も出来ずに【ゲーム】の開始時刻になってしまった。
 どれだけ悩んでいたとしても時間の進みは遅くなったりなどしない。
 眠れていない分、せめて食事はどうにかしようとしたものの上手く摂取出来なかったのも良くない。このままではマズイことになる。
 そんな事は嫌という程分かっていても、【ゲーム】は当たり前に始まるし、その日常は変わらない。
 だが、今回の部隊でミラージュも味方である事だけは幸いだった。

 『周囲に敵はいない』

 初動で降りたハイドロダムの端にある建物の物陰にしゃがみ込みながら操作していたドローンとの視界共有を切断し、通常の視界に戻るとすぐ傍にミラージュの靴が見えて顔を上げる。
 視線のあったミラージュは心配そうな顔をしてこちらを見ており、申し訳無さが先に立つが何を言うべきなのかすら分からない。
 何事も感じていないように見せかけながら、ゆっくりと立ち上がるとミラージュから微かに視線を逸らした。

 「おい、大丈夫かよ。……顔色ヤバいぞ」

 「問題ない……いつもの事だろう」

 ふ、と皮肉気に笑ってみせるが逆にミラージュはさらにその眉を顰めただけで笑ってはくれなかった。
 そうしてミラージュはクリプトの肩に両手を置いてから、今までに見た事の無い真面目な表情でクリプトを見つめた。

 「なぁ、クリプト。俺は本気でお前の事、心配してるんだ……昨日あんな風にした俺が言うのもおかしいって分かってるけど……」

 「……問題ないと言っているだろう」

 「そういう顔してねぇだろうが」

 いつになく真剣な表情で詰められるのをどこか遠い出来事のように思いながら、クリプトは自分の中にある本心を隠さなければとそれだけを思う。
 さらに力を込められた指先を一瞥してから、またミラージュの方に顔を向けると敢えて冷たい表情を作って声をあげた。

 「……お前にとって性欲処理道具程度に考えていればいい。お前も俺も、そういう関係が楽でいいだろう?」

 「はぁ!? ……お前、……」

 「必要以上に俺に深入りするな。面倒なんだよ」

 そんな言葉を吐き出す度に胸が軋む。もしもミラージュがこちらを見限ったとしても仕方がないだろう。
 でもこれでお人好しなこの男が爛れた関係を断ち切る理由を見つけられるのならばそれでいい。
 結局、最初から最期まで人は一人で生きて死んでいく。
 この血塗られた【ゲーム】に友情だとか愛情だとかそんな不純なモノの存在を見出した俺が悪かったのだと、そう納得できる。
 クリプトの肩から手を離したミラージュはさらに何かを言おうと口を開くが、その前に少し離れた場所で周囲を警戒していたブラッドハウンドがこちらに近寄ってくる。
 その姿を見て二人は自然と会話を止めた。

 「同志よ、敵も居ないようだしこのまま前進して次のリングが確定するまでケージで少し待機するのが良いと思う。どうだろうか」

 同じ部隊となったブラッドハウンドがどのように俺の事を捉えているかは分からなかったが、少なくとも【ゲーム】に参加している【レジェンド】の中でも歴が一番長いブラッドハウンドは戦闘中に私情は持ち込まないだろう。
 変わらずにかけられる言葉に内心安堵しながらもクリプトはブラッドハウンドの提案に頷いた。
 それを見ていたミラージュは複雑そうな色をした目をしながらも、同じく頷きを返して同意する。

 二人の同意を確認し、先陣を切って走り出したブラッドハウンドが建物を出て、巨大な鉄の扉を開けてケージ方面に向かうのを追いかけるようにミラージュが走り出し、追いつかねばとクリプトもまた足を動かす。
 だが、急に動き始めた所為かぐらりと視界が揺れ、全身に寒気が走った。
 そんな醜態を絶対に表に出すわけにはいかないと、施設と施設を繋ぐようにつくられた薄暗い建築物に入り込むと、その建物内にある何度か折り返されるように造られた長い階段を必死に登り、金属製のドアをくぐる。
 しばらく待機すると言っていたからどうにかそこまでは辿り着かないと、と思ったが視界の中に巨大な檻のような建物が見えたのと同時に、喉元からせり上がる不快感を抑える事が出来なかった。
 よろめきながらコンクリートの地面をフラフラと歩み、ケージと呼ばれる建造物に近づくためにどうにか草生している地面に足を乗せる。
 途端に普段は感じる事の無い土の湿った匂いが鼻に入り込んで吐き気を増長していく。

 「!……っぐ……っぅ……げ……」

 遂に我慢しきれず、咄嗟に掌で口を閉じ込めるが洩れ出た吐き気はそのまま外に出ていく。
 そうして力の抜けた体をどうにか支えようと小石の転がっている地面に片手と膝をつくと、びしゃりと不快な音を立てて碌な物を食べていないというのに胃液が逆流する。
 …………本当に自分はどうしてこんなに弱い生き物なのだろう。
 胃から洩れ出た吐瀉物を生理的な涙で濁った視界の中で見たクリプトは、ぼんやりとそんな事を考えてしまう。

 「クリプト!!」

 そんなクリプトを見つけたミラージュはすぐにその踵を返し、クリプトの傍に寄ると苦しげな呼吸を繰り返す薄くなった背中を擦る。
 先ほどあんなに酷い事を言った上に、こんな無様な姿を見せたくないと思っているのに、気にもしていないのかミラージュは呆れたように呟いた。

 「やっぱり"問題ない"じゃないだろうが……ほら、全部吐いちまえ。ブラッドハウンド、悪いが運営に連絡して貰えるか」

 「……もちろんだ。すぐにドロップシップを要請しよう。待っていてくれ」

 「だ……い……じょうぶだ……」

 そう言ってさっと離れた場所に移動したブラッドハウンドが通信デバイスで帰還要請の連絡を始めたのを見て、顔を上げてそう言葉を発する。
 ここで連絡をすれば部隊全員が棄権扱いになってしまう。
 自分の体調コントロールが出来ていない所為で他の二人に迷惑をかけるのは嫌だった。

 「お前、いい加減にしろよ」

 しかし、目の前に居たミラージュが低い声で囁くのが聞こえて思わず体が固まる。
 それは今朝見た夢で強い言葉をかけられた時と同じ口調に聞こえたからだった。
 そっとクリプトが視線を合わせると、こちらを見たミラージュの瞳が少しだけ和らぎ、背を擦る手は止まることは無い。

 「もう良い。今日は帰ってゆっくり休め。今度頑張ればいいだろ」

 「……無理だ……」

 「なんでだよ」

 「……むりなんだ……」

 目を閉じればあの悪夢が襲い掛かって来るのに、ゆっくり休むなど出来るわけがない。
 しんと静まり返ったあの部屋で一人眠るのは無理なのだ。
 どうせ眠ろうとしてもあの夢はどこまでも追いかけてきては精神を苛む。
 だから自分は休むなんて事が不可能なのだと説明も出来ないまま、ただ無理だ、という言葉だけを繰り返した。
 そんな中、背を撫でていたミラージュは小さなため息を吐いたかと思うと、そっと撫でていた手をクリプトの頭に触れさせた。

 「分かった。……お前、このまま今日は俺の家に来い」

 「……え?」

 「いつもお前が勝手にやってきてさっさと帰っていくんだから、たまには俺が指示したっていいだろうが」

 「……しかし……」

 「いいから」

 こんな状態でミラージュの家に行くという選択肢がクリプトの中には存在しなかったので、その言葉に困惑する。
 一人きりで居るよりは確かに気は紛れるだろうが、ミラージュの迷惑になってしまうだろう。
 しかし、有無を言わさぬミラージュの言葉に被さる様に聞き慣れた帰還用ドロップシップの巨大な飛行音が響き、こちらに肩を貸してくれたミラージュに連れられブラッドハウンドと一緒にそのドロップシップへと乗り込んだ。






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