されど道化は異形と踊る



 ひたすら走る、走る、走る。
 ゼイゼイと喉に絡みつく息が苦しい。
 それでもなお、左右どちらから前に出すべきなのか忘れそうなくらいに縺れかけた足を必死に動かし、闇深いキングスキャニオンを一人で駆け抜ける。

 それは、立ち止まればその時点で終わりなのだと、いちいち深く考えずとも分かっているからだった。
 申し訳程度の薄緑の照明、さらにその遥か彼方、天に輝く満月はその姿を雲に半分ほど覆われて、ほんの少し先でさえも前が見えにくい。
 そんな中でも背後からひたひたと確実に闇が迫ってくるのが伝わってきて、吐いた息が肺を押し潰しかけるのをまた、吸い込んで膨らませる。
 ほの暗い世界をただただ目的も無く、行く宛もないまま、それでも進まなければならない。
 だからこの別次元は嫌なんだ、そんな苛立つ心をぶつけるように乾いた地面を一際強く蹴った。

 一緒の部隊だった筈のオクタンとジブラルタルとは途中ではぐれた上に、通信機器に何故かノイズが混じっていて連絡がつかない。
 だから二人が生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からない。
 その上、周囲には敵部隊ではある筈だが、それ以上に恐ろしい"奴ら"が息を潜めている。いや、"奴ら"と呼ぶのは流石に冷たいのかもしれない。
 だって、"彼ら"は元々自分と同じ【レジェンド】の一人だったのだから。
 爛々と輝く瞳に、その身を火にくべた炭のように黒と赤に染め上げた影。お世辞にも素敵だとは言えない絵本の中の怪物のような姿。
 捕まれば最後、自分も同じくその影へと変わってしまうらしい。
 ハロウィンだなんて可愛らしい表現をしているが、所詮は【殺し合いゲーム】
 その本質はどうやったって変わらない。
 「ッ……!」
 気が付けば遮蔽物のまるで無い野っぱらで、周囲には複数の影。
 これ以上は逃げていても追いつかれるだけだと覚悟を決め、素早く目線を走らせ背中のホルスターに手を伸ばしてヘムロックを取り、構えた。
 グルグルという唸り声をあげている影の姿は皆、どこか見た事のあるシルエットで余計にそれが心苦しい。
 けれどここで撃たなければ、今度は自分がそうなる番だ。

 目の前に駆けてきた影を一体、手早く撃ち抜き、その横からさらに駆けてきた影の爪先が衣服を裂いて肩を僅かに削ぐのを受け止めつつ、ソイツの眉間を撃って処理していく。
 デコイを出す暇もない攻撃の激しさに舌打ちをしながら、今度は背後から襲い掛かってきた影を撃ち抜く。
 だが、一瞬反応が遅れたせいで後頭部を引っかかれ、パッと舞った自分の血液と共に、ギャアと影の悲鳴が上がった。

 弾丸が撃ち出される度に空の薬莢が周囲に散っては地面に転がるが、いくら掻き消しても次々と湧いてくる影に次第に取り囲まれ、リロードの合間、一気に複数の影に圧し掛かられる。
 水際に餌を撒かれた魚のように群がってくる影達にそのまま硬い地表に引き倒され、鋭い爪が全身を裂いていく感覚に悲鳴を上げそうになるが、それよりも先に意識と血液が失われる方がきっと早い。
 こういう痛みは何度経験してもやはり辛いものは辛い。
 そうして眩む意識の中、最後に俺の上に跨ってこちらをその赤く光る瞳で見つめてきた影は、あの皮肉屋な男にどことなく似ていた。

 ――――このまま、影になってしまう。

 どこまでも深く冷たい、世界の底へと落ちていく感覚。
 不意に耳元で殺人ロボットであるレヴナントの声が聞こえる。
 いや、正確に言うならばこの次元の王である"シャドウレヴナント"と称するロボットの声。
 無機質で、それでいてどこか愉しそうなその声は、まるで本当にすぐ傍に居るかのように脳内に響く。

 『ウィット、お前が何を考えているのか分かっている』

 ――――氷水に足を浸してしまった時のように足先が冷たい。

 これは腿につけられた傷が深いからだろう。
 そうしてジワリジワリとそこから洩れ出た血液が青々としているのだろう草を伝って地面に染み込んでいく。

 『みんな見た目が同じだ。どうやったら「俺」だって母さんに分かって貰える? ……だろ?』

 いきなり心臓にナイフを刺し込まれたかのように胸が痛んだ。
 そう、みんな見た目が同じなんだ、俺も、デコイも。そういう風に作っている。
 けれどいつしかそれが自分を苦しめている事に気が付いていた。
 母さんが俺を笑わせようとジョークで作ってくれたプロトタイプから研究を重ねて、自分を守る為に作ったデコイ。まるで鏡に映したように全く同じ姿のそれらを見ていると、段々とどれが本当の自分なのかが分からなくなる。
 俺は【ミラージュ】で、それから、【エリオット・ウィット】なのだと理解している筈なのに、自信が無くなってしまう。
 だって、母さんは俺が分からないんだ。
 デコイの中に居るからじゃない、俺という存在が、もう。

 『無駄だ、このガキ。息子が居たって事さえ既に忘れている』

 ざらざらとした笑い声が耳の奥で反響する。

 ――――冷たかった足先がその範囲を広げ、腿を覆い、下腹部まで這い上がってくる。

 出血しているから寒いのか、それともこれが影になるという事なのか。

 不意に母さんと一緒に研究をしていたあの頃を思い出す。
 母さんは研究をしている時が一番楽しそうだった。そうして俺も、そんな母さんと一緒に居られる時間が楽しかった。
 俺は兄貴たちみたいに優秀じゃなかった、スポーツだって、音楽だってろくすっぽ出来なかった。
 そんな俺が唯一、母さんに認められる瞬間が嬉しかった。
 必死になって本を読み漁って、母さんの役に少しでも立とうと頭の中にホログラムに関する情報を詰め込んだ。

 ――――肋骨まで冷たさが這い上ってくる。

 兄貴たちが行方不明になったとソラス軍の奴らがやってきた日。
 母さんがデコイのプロトタイプである俺の姿を初めて形作った、温かくも懐かしいあの日。
 背広を着た兵士が、玄関先であっけなく紙切れ一枚を母さんに渡して居なくなった、あの時。

 心のどこかで俺は悲しいという気持ちと一緒に、どこか安心してしまっている自分が居るのに気が付いていた。

 もう比較される事も無い。
 ただ母さんの手伝いしか出来ない、末っ子のエリオット・ウィットは母さんを守る事の出来るただ一人の自慢の息子になった。
 簡単なコミュニケーションすら上手くこなせない、そんな自分が嫌で仕方が無かった。
 だって、話せば話す程に周りの人間は俺をやかましそうに追い払って、そうして黙っていれば、存在すら無視される。

 でも兄貴たちは違った。
 ロジャーはピアノが得意でみんなの好きな曲を軽やかに弾けたし、リッキーとイーロンはサンダードームで知り合った友達といつも楽しそうにどんなスポーツだってこなしていた。
 羨ましいと思わなかった日はない。
 だって、母さんもずっと家に籠って母さんの手伝いだけをしていた俺を心配していたから。……いつまでも親離れ出来ない、小さな子供。
 それがあの瞬間、あの場所で、大きく変わったのだと16歳の時の俺はキチンと理解出来ていた。

 ――――心臓が冷たくなる。喉まで氷のような冷たさが這い回って、吐き気がする。

 ならばこれはきっと罰なんだと、そう思った。

 心の底から兄の死を悲しめない酷い弟。
 母さんの一番になりたかった。ただ、認めて貰いたくて。
 でも今は、もう母さんの中に俺は居ない。
 【エリオット・ウィット】なんて息子は存在すらしていないのだ。

 いつしか病室に行くのが堪らなく怖くて、ドアを開ける度に指が震えた。このドアの先に居る母さんだった人は、今日、俺を覚えているのだろうか。
 それとも、もう記憶のカケラすらも抜け落ちて、そうして、俺なんて知らないと言うんじゃないのかと、恐ろしかった。
 だって実際に、病室のドアを開けて笑いながら室内に入り込む俺を見た母さんの目が、不思議そうな色を宿す回数が増えている。
 『貴方はだぁれ?』と聞かれるその瞬間が、その日、ドアを開けたタイミングじゃないなんて誰にも分からないのだ。
 「……ごめん……なさい……母さん……兄さん……」
 止める間も無く目元から温かな涙がポロポロとこぼれ落ちる。
 酷い事を考えてしまった俺を許して。どうか、許してくれ。
 脳内で母さんの笑顔と、それから兄貴達の記憶の中でおぼろげになりつつある笑顔が浮かんでは消えていく。あの小さな家で少なくとも仲良く暮らしていたんだ。親父はしょうがない男だったけれど、その分、俺達は支えあって暮らしていた。
 本当に母さんも兄貴たちも好きだったんだ、今だって、ずっとそれは変わらない。家族なんだから、大切なのは真実だった。
 それなのにあんな事を少しでも思ってしまった、醜くて弱い俺を許して。

 ――――口元まで冷たさが上って、もう何も唇から言葉は出ない。

 頭上に輝く冷たい月が影になりつつある俺を照らしていく。目までその影が覆う時、暗かった視界は急に明るさを増して、ただ生きている敵を探さなければという思いだけに染まっていく。
 『あぁ、可哀想なウィット。……お前はもう誰でも無い、ただの影だ』
 脳内で囁く声がする。立ち上がって、探さなければ。"王"がそう願っている。
 『……さぁ、もう一度、だ』
 いつしか身体の痛みは無くなっていた。
 そして倒れていた地面から起き上がり、駆け出す。生きている敵を殺しにいかなければ。
 この体は、ただただ命令された事を実行する為だけに呼び戻された影なのだから。






戻る