黄色と緑の糸の先



 吐く息が白く染まり、微かに窓を開けて出していた顔を引っ込める。
 ほんの僅かな時間だけだったというのに、それでも金属デバイスの取り付けられた頬が冷たくなっているのを感じ取る。
 しかし、いつもなら寒いと感じる筈のその冷たさも今は心地良さすら覚えるくらいだ。
 どうせならと、窓をもう少しだけ開けてルーフバルコニーへと続く外に置いてあったバルコニー用のサンダルを突っ掛けて、背後の窓を閉めてからそっと深緑色のニットとデニムを纏った身体を投じた。
 全身に纏わりつく冷気も、風が無いからか刺すような痛みは感じない。
 そこそこの広さを有しているルーフバルコニーのコンクリート製の地面を歩き、辿り着いた冷えた手摺りの向こうには、キラキラと輝く星と新年で浮かれているらしい人々の居る街並みが広がっていた。

 新たな年を迎えた瞬間、俺は家族と過ごす予定の無いレジェンド達と共に、パラダイスラウンジで行われていたニューイヤーパーティーに半ば強制的に参加させられており、ヴァルキリーやランパートの強引な勧めによって中々の酒量を摂らされた事までは覚えていた。
 しかし、次に意識がハッキリとした時には見覚えがあるものの、移動した記憶の無いベッドの上に寝かされており、それと同時に隣に当たり前のように寝ているミラージュの気配を感じて驚いた。
 だが、驚いた後に、そういえば男にこのセーフハウスを教えたのは自分だった事を思い出し、ほっと溜息を吐いた。
 閉め切られたカーテンを透かすように入る月光。淡い光の中で眠る男はまるで彫刻のようで、それが不思議とまだ夢の中にいるような錯覚を齎す。
 普段は喧しく開かれる厚い唇は微かに開かれ、緩やかな寝息を洩らしていた。
 恐らく俺をここまで連れて来てからシャワーを浴びたらしいミラージュのセットされていない毛髪は、普段とは異なりふんわりとした柔らかさを有している。
 その柔らかな髪が顔にかかっているのが勿体なく感じられて、指先で起こさないように耳にかけてやると、一層男の整った顔立ちが露わになった。
 けれど髪によって出来ていた影が消えた事で、今度はいつもよりも幼く見えるミラージュを見つめる。
 俺はそれを見ていると、苦しさの余りに何かをしでかしてしまいそうで、それが嫌でベッドから立ち上がったのだった。

 あの男と出会って、友人として、ライバルとして、関わっていく内に、形容しがたい感情に陥っていった。
 高い所から低い所に水が流れるように、もしくは、坂を落ちていく石のように。
 縁であるとか、運命であるとか、そのような生温い言葉で言い表したくないくらいには、ミラージュに対して持つ感情は縺れて絡まっている。
 ロマンチックに語るのなら、赤い糸ですら怯え戦慄きその身を隠すくらいに。
 愛とは何ぞやと蘊蓄を垂れ流せる程に、俺は経験豊かでは無い。そうして、恋をしていられる程に、余裕がある生活をしてこなかった。
 恋愛というのは衣食住が足りていて、心に余裕がある人間がするモノなのだと思う。
 生きるのに精一杯な状態では、人間だって野生を生きる獣とそこまで変わりは無いのだろう。
 ただ残酷なのは、獣はそれを当然として受け入れられるのに、人間には理性があって、他者を羨み妬む気持ちが存在する。
 路地裏で生きていた頃、饐えた臭いのする道の一本向こうの大通り。綺麗な服を着て、両親に手をひかれて新年の買い出しに来ていたのだろう見知らぬ子供の背中を睨み付けていたのを思い出す。
 それを考えるのなら、今こうして、恋愛に関して思い悩み、その相手が俺を当たり前のようにここへ運んでくれたという事実は良い出来事なのかもしれなかった。
 「クリプト……?」
 「起きたのか、小僧」
 「……寒いだろ、そこ」
 カラカラと窓の開く音がして、ゆっくりと振り返る。
 すると寝惚け眼のミラージュが窓の枠に手をかけてこちらを見つめていた。
 本当は礼をしなければならないのは分かっているのに、それでもわざとらしく小僧という呼称を使ったのは、酔った自分が何をしでかしたのか分からなかったからだ。
 だが、ミラージュは俺のそんな声かけにいつものような返答はせず、こちらの身を案じるような言葉を発したかと思うと一度部屋の中へと戻って行った。
 一体なんだと思っていると、暫くしてから温かそうな大判のブランケットを纏い、靴を持ってきたらしいミラージュがルーフバルコニーへと入ってくる。
 わざわざそうまでしてこちらに来なくても良いのにと思っていると、近づいてきた男がそのブランケットの端を広げた。
 「っ、お、前……何をして……!」
 「つーかまえた」
 「バカ、ひっつくな」
 「……ほら、やっぱり冷えてんじゃねぇか。いくら明日からホリデーだからって風邪ひいたらどうすんだよ」
 そのまま俺ごと抱き込めたミラージュに、上手く言葉が出ない。
 なんでこんな風にされるんだと胸元を押して離れようとするが、ガッチリとした腕に捕まえられて上手く逃げる事が出来なかった。
 その上、夢想していたよりも遥かにこの男の体温が温かくて、いつもはする筈の甘い匂いはシャワーの後だからか余りしない。
 何がどうなってる? と動揺している俺を覗き込んできたミラージュは不思議そうな顔をしたかと思うと、何度か瞬きをした。
 そうして少し考え込んでいたミラージュは、今度は不安げな顔をしながら小さく囁いた。
 「クリプちゃん、お前、まさか……記憶、けん……け……忘れちまったの?」
 「忘れるって……何を」
 「『行かないでくれ』とかさ、『隣に居て欲しい』やら……あぁ、後は、『好』……むぐッ」
 「なっ!? ぁ、……あ……?」
 思わずごちゃごちゃと言う男の唇を手で塞ぐ。
 そんな風に言われると、確かに酔っている間にここまで運んでくれたミラージュに何か言っていたような記憶が甦ってくる。
 だが、そのような話をしたのかと必死に思い出そうと頭を動かすが、上手い具合にそこは霞がかかっていて見えてこなかった。
 酒だけでは無い、今度は身体の芯から羞恥で熱くなる身体が辛い。
 ずっと奥底に秘めておく筈だった感情を酒のせいで吐露してしまったのだとしたら、これ程恥ずべき事は無いだろう。
 どうにか誤魔化せないのかとグルグル回る思考で考えていると、抱きしめられていた腕の片方が動いてミラージュの口元を塞いでいた手を握り込まれる。
 温かくも乾いたその掌が、宥めるように俺の手の甲を擦るものだから、俯きかけた顔を上げると月明かりの下で笑う男と目が合う。
 揶揄うような笑みでも無く、かといって嘲笑めいた笑みでも無い。
 ただただずっと欲しかった物を与えられて喜んでいる子供のような純粋で優しいその笑顔に、見惚れる。
 「じゃあ俺が返した言葉も覚えてないって事だよな」
 「……返事、したのか」
 「そりゃそうだろ。あーんな泣き出しそうな顔で必死に言われたら、お返事しない方がサイテーだろ?」
 「泣き出しそうな顔なんて……」
 「してたよ」
 不意に真面目な顔で言い切られて、何も言えなくなる。
 自分でも自分の感情を表立って出すのが苦手なのは理解出来ていた。それは、幼少期に得た幾つもの経験から来ている。
 己の本心を言っても、上手く受け止めて貰えなかったあの頃の思い出が過ぎっていたのかもしれなかった。
 認めて欲しいと、"俺"を愛して欲しいんだと誰にも言えずにただベッドの上で一人泣いていた夜。
 曝け出すのは恐ろしい。もしもそれをして、愛を貰えなかったら? あの路地裏にまた戻る事になったら?
 だったら誰かの代用品で良いんだと自分自身を納得させて生きてきた俺の前に、ただ一人の男が立っている。
 「……お前が、背負うべき物はこれじゃない」
 「……うん」
 「ただの、酔っぱらいの夢だったんだ。……くだらない話だ……」
 「お前は確かに酔っぱらってたなぁ。今度あの悪ガキ達をしっかり怒っておかないとな」
 「だから……忘れて、くれないか……」
 俺の声とは真逆で、能天気な様子な男はこちらの言葉を聞いていたかと思うと、また俯きかけた俺を呼び戻すように握っていた手を引く。
 目を上げた先には柔らかな色を灯したヘーゼルの瞳が一対、ゆったりと細まり俺を見ていた。
 「悪いがそれは出来ない相談だな」
 「……なんで……」
 「なんで? なんで、ねぇ。……そんなの決まってるだろ」
 「……ミラ……」
 ぐ、と体を引かれて名を呼ぶ前に唇が触れ合う。
 乾いていて、それでいて滑らかで張りのあるそこが離れていくのと同時に、目の前の男が少し照れたようにまた笑った。
 これが夢じゃないのなら、俺はどうするのが正解なのだろう。
 黙り込んだままの俺を強く抱きしめたミラージュがこちらの背に回していた手でそこを撫でながら、訥々と呟く。
 「……背負うべきモノとか、そういうのは知らないけどさ。……お前が色々抱えてるのも分かってるし、勿論、俺だって色々ある……そりゃもうタロスの山くらいには山盛りさ」
 「でもそれは、そういうのは一旦置いておいて、その上で俺はお前が欲しかったんだ」
 「泣きそうなお前を抱きしめてさ、こうやってキスして、大丈夫だって……お前には俺が居るからって、そうやって言いたかった。ただ、それだけの話なんだよ」
 俺達は抱えているモノが多くて、それを取りこぼさないように毎日必死で走っている。
 その重みで潰れてしまいそうになる時だって、今まで何度も、数えきれないくらいには存在していた。
 それでもなお、前を向き続けるんだと、誰にも寄り掛からず、寄り添わず、そうして生きていくんだと信じていたのに。
 「だから忘れてくれなんて、言わないでくれよ。クリプト」
 もしも神が居るのなら。この彫刻のような造形をした、それでいて温かな血の通った男を俺に与えてくれる慈悲を感謝してしまう程に、その真摯な顔が目の前にある。
 まだ全てを曝け出せずとも、"俺"を愛して欲しいんだと願っても良いのだろうか。
 それが許されるのなら、未だ酒に酔っているんだと言い訳をするから、どうかこの夜に溺れさせて欲しい。
 「……ウィット」
 「うん」
 「ウィット……」
 「……どうした、クリプちゃん……ん、……」
 何度も名を呼び、そうして首を傾げた男に顔を近づけて口付けを返す。
 自然と閉じた瞼を開いて離れた粘膜の先に居るミラージュを見つめると、頬を染めたミラージュと目が合う。
 そうしてふるりと一度震えたミラージュが囁く声がする。
 「なぁ、もう寒いから部屋に戻らないか? ……きっとそっちの方が温かくて良いと思うんだが。どうだ?」
 「……あぁ」
 「よっしゃ! じゃあ戻ろうぜ。……目も覚めちまっただろうから、また飲み直すのもいいし……何せ、まだ今年は始まったばかりだからな!」
 そう言って手を離し、俺の肩を抱き寄せるような体勢になった男に連れられて部屋の方向へと足を進める。
 まだ今年になってから数時間も経っていないのだろう。それでも俺達の関係性は確かに歯車が回り始めていた。
 この歯車がどう転がっていくのか、俺にも男にも未知の領域で、進めば進む程に苦しむ事だって増えていくのだろう。
 それでもどうか、これから始まる一年が素晴らしい一年となりますように、と俺は気が付かれない程度に隣に居る男の肩に自分の頭を凭れさせ、静かに笑った。






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