空から無数に降り落ちる雨粒が、見るからに古びて錆びた気配に満ちている幾つかの廃屋の屋根を叩く。
ぽつぽつと点在する廃屋には明かりは点っておらず、くすんだ雲の向こうから僅かに透ける光だけが唯一の光源だった。
もう数時間もすればそんな透ける光すらも失われて、ここは完全な暗闇へと変化するだろう。
そんな文明の途絶えた世界で、着ているネイビーのレインコートの上を滑る雨が勢いを増していくのを感じながら、クリプトはただひたすらに緩い傾斜のついた道を下っていた。
目的地は決まっている。そうしてこれから起こるだろう未来も、クリプトには大方見えていた。
過去に起きた幾度かの内戦によって今は人の住まわない土地と成り果てたこの場所で、相変わらず舐めるように浴びせられる背後からの視線を察し、クリプトは臓腑の奥から押し出すように吐息を洩らす。
踏めば土と混ざる程度の薄い雪に覆われた地表は、降り注ぐ雨の影響でより気温を沈ませ、履いているブーツの厚みのある靴底すらも通り抜ける冷気が体温を低下させた。
(ここは、相変わらずひたすらに寒いな)
内心でクリプトはただそれだけを思う。
なぁ、お前もそうは思わないか? と問いかけそうになった声は押し留められて、代わりに冷えた空気の中で立ち上る白い靄がかった二酸化炭素は、そのまま薄暗い空へと溶けていった。
レジェンドであったクリプトがマーシナリー・シンジケート……彼が"奴ら"と呼ぶ相手の弱みとして充分に機能するであろう情報を掴んではや半年。
"奴ら"がその情報を得て、クリプトがレジェンドという地位を捨ててからは約5ヶ月が経過していた。
秘密を知ったクリプトをシンジケートが当然放置しておく筈も無く、今まで何度もシミュレーションした通りにクリプトは一人、秘密裏に用意していたいくつものセーフハウスを渡り歩いて逃げる日々が続いていた。
そうして、もう何度目の移動かも数えるのを止めたクリプトが次の居住地として選んだタロスの雪深い山奥にあるセーフハウスの一つに向かう途中、背後から寄り添うようについてくる慣れた気配を感じ取ったクリプトは、敢えてゆったりとした足取りで歩く事を決めた。
いつもなら追手を撒ける自信があったが、今回の相手には少々、分が悪いと判断したからだった。何よりも、追えるものならば追って来ればいいと思ったのもあった。
相手だって気配を殺す事無く追いかけてきている時点で、クリプトに気が付いてくれと言っているようなモノだったからだ。
そのまま着かず離れずの距離を保ってここまで追いかけてきた相手も、覚悟などもうとっくに出来ているのだろう。
今からここで何が起きても、きっと誰一人気にも留めない。そもそもこの場所は忘れ去られた土地だ。
だから、全てを終わらせるのには最適な場所のようにクリプトには思えた。
人々から忘れ去られた廃村の一際奥に存在する一棟の教会。クリプトは取り付けられた[[rb:庇 > ひさし]]の下にあるドア前の段差に足を乗せた。
漸く雨に打たれる事無く居られると、想像以上に冷えた体温を感じながら、以前にここを訪れた際に鍵を破壊しておいた事をクリプトは思い出す。
所有者には申し訳なく思うものの、それでも他者の物を破壊するのはクリプトにしてみればもはや慣れた行為の一つだった。
樫の木で出来ているらしい両開き扉には、真鍮製のシンプルなドアノブがついており、汚れてはいるものの、本来はクリーム色の壁面には夏の間に繁っていた蔦の跡が残っている。
躊躇う事無く金属製デバイスの取り付けられた指先を掛けたドアノブを引けば、ギイと軋んだ音を立てて扉は開かれた。
扉を潜ると埃っぽい室内に色褪せた信徒用らしき木製の長椅子が何脚も整列しており、全て前を向くように並んだ両脇の長椅子の中央を通すように作られた通路の先にはクリプトは信仰していないものの、神と呼ばれる存在のシンボルが建てられていた。
その手前には大理石で作られた祭壇が置かれ、蝋燭の立てられた二対の燭台が寂しげに残されている。もしかしたら、この教会の管理者は彼の信仰している神の身許に急に送られたのかもしれなかった。
そうでなければ少しは整理してからこの地を去ろうとするだろう。
だが、まるで時が止まったかのようなこの教会は、ただ静かに存在している。
神聖さを失わずにいる教会の中を汚すようにポタポタと雫を滴らせたまま、クリプトはざらついた長椅子の背もたれを一度指先で撫でた。
湿った指先が長椅子の埃の上に跡を残し、そのままそこから指を離したクリプトが目を上げると、覚悟を決めたようにしっかりとした足取りで歩み出す。
カツン、とブーツの底を鳴らして中央の通路を行き、祭壇の前まで進んだクリプトがレインコートのフードを下ろした頃には、背後で先ほどクリプトが開けたドアを軋ませて一人の人物が教会内へと入ってきていた。
扉の開く音の後、同じく軋む音を立てて閉めた扉の前で立ち止まった闇に紛れるような黒いレインコートを着た人物は、何も言わずにクリプトの背中を見つめる。
その視線に応える為に身体全体でその人物の方に振り向いたクリプトは、通路の先に居るかつての恋人であるミラージュの姿を見つけると、より一層、深く息を吸い込んだ。
十字架の掲げられた教会の壁面には磨かれていないせいで濁った色彩へと変化しているステンドグラスが設置されており、ほんの僅か差し込む外の光が反射して鈍く色を放つ。
そんな空間の中で、一切の言葉を発さず、濁ったステンドグラスと同じように曇った瞳をしているミラージュと視線を交わしたクリプトは、ただただ、ミラージュの一挙手一投足を見守る事に徹していた。
見つめられている事を自覚しているミラージュは、クリプトの目を見ながら被っていたフードを下ろす。
ぽたぽたと落ちる雫がミラージュの足元を濡らして、いつもセットしている髪はフードと湿り気のせいでしんなりとしている。
そして、湿ったレインコートを纏っていてクリプトからはよく見えないが、ミラージュは様々な物を詰め込んだバックパックを背負っていた。
「久しぶりだなぁ、クリプちゃん」
暫しの沈黙を破ったのは、ミラージュだった。そうして薄暗いこの空間にそぐわない明るい声を発したミラージュは、その唇に笑みを乗せる。
柔らかくも人好きさせる笑顔は、クリプトが何度も見た事のある笑顔に酷く似ていた。
だが、クリプトはそれに対して笑みを返さず、そうして警戒を緩める事無く、近寄ろうとしているミラージュに向かって冷静さを失わないまま声をかける。
「……いつからだったんだ?」
「? ……何がだよ」
「いつから、"奴ら"と内通していた?」
そう囁いたクリプトの顔には、うっすらとした笑みが浮かんでいた。
代わりに先ほどまで笑みを浮かべていたミラージュの眉が微かに動き、唇が戦慄く。
けれど変わらずにその顔の笑みを消す事はしないミラージュは、ワケが分からないといったように両手を掲げてジェスチャーをした。
しかし、動こうとしていた足はピタリとその動きを止めたかと思うと、ミラージュの答えを遮るように外の雨足が強まり、教会の屋根を打つ。
「おいおい! 俺は、お前を……」
「もう良い。……いいんだ、エリオット」
「……テジュン……」
「……盗聴でもされてるのか? そうじゃないなら、もう、良い。分かっている事を確認しているだけなんだから」
クリプトのその一言を聞いた瞬間、ミラージュの顔に浮かんでいた笑みは掻き消え、深いため息がその唇から洩れ出る。
そうして薄暗い瞳をしたミラージュがクリプトへとそっと笑う。
その笑みは先ほどのような明るさを宿した笑みでは無く、ただ諦めのような空気を纏っていた。
「……それを確認してどうするんだ?」
「……お前の意志がどこからなのかが気になっただけだ」
「意思? ……それはさ、もう今更だって、お前も分かってるクセに」
ハハ、と空笑いをしたミラージュはただ濁ったままの瞳を細めて首を傾げる。
ミラージュのそんな姿を見たクリプトは、この男の意志が固い事を理解する。それと同時に、人一倍、臆病な彼がこんな風になった事を後悔していた。
いつかこんな未来が来るかもしれないと分かっていたのに、結局のところ、自分の弱さがこの母親想いの男を苦しめている。
でも、それと同じくクリプトももう引けない所にまで足を踏み入れていた。
愛を囁いて、その手を取って逃げようとする選択肢を選べないくらいには、もはや二人だけの問題では無い。周囲を巻き込み過ぎている。
背負うモノが多ければ多い程に、人は苦しみや物事から逃れる事が難しい。それが家族の命に関わるならば、余計に。
「そうだな。……あぁ、でも俺は、……ずっとお前に謝りたいと思っていたんだ」
「……いらねぇよ。そんなモン、……そんなの、……何一つだって欲しくない。……だって、全部、演技だったんだ」
演技だったと言ったミラージュの顔が一瞬だけ歪む。
まるで自分の心を自分で刺し殺したかのような、痛みを堪える表情はすぐに掻き消えて、真顔へと戻る。
そんなミラージュの顔を見て、クリプトは余計に眉を顰めた。演技だというのなら、そうだったとしても構いやしない。それならそれで、良いのだと思う。
それなのに、最期まで嘘を付き通せない男の傷の深さを自分の事のように感じ取る。
クリプトの心もミラージュの言葉一つ一つがまるで釘を打ち込まれたかの如く刺さって血を流していた。
クリプトが表情を変える事は無かったが、心から血が止めどなく滴るのを感じつつ、ホルスターに携えているウィングマンに手を掛ける。
それと同じタイミングで、ミラージュもまたホルスターに携えていた武器を構える。
古ぼけた教会に響く幾つもの銃声は、容赦なく空間を裂いて木霊した。
□ □ □
小型ランタンの明かりの下、ザクザクと霜の下りた土を掘る音がする。
変わらずに雨は強く降り続いており、湿った土塊がクリプトの頬へと飛んだ。
周囲は完全に闇へと呑み込まれ、低い木の枝にかけられたランタンの明かりだけでは殆ど何も見えなかった。
だが、クリプトはただひたすらに穴を掘っており、その深さが十分に達したと感じたタイミングで握っていたシャベルを放り投げた。
教会の物置小屋に捨て置かれていた錆びたシャベルは柄の部分が木材で出来ており、経年劣化でささくれだったそれでは掘るのにも時間がかかる。
その為、ひたすらに同じ動作を繰り返した事で汗ばんだ身体から落ちる汗も雨に混ざって、地面へと吸い込まれていった。
それに加えて、クリプトは左腕を負傷している事もあって、服の下で止血した包帯に赤い血が滲んでいく。
それでも、これだけは自分がしなければならない事だと理解していたクリプトは、掘った穴の横で濡れないようにレインコートを被せた物体に視線を向けた。
そのまま倒れているモノの傍にしゃがみ込んだクリプトは被せていたレインコートを捲り上げる。
途端に雨によって頬を濡らしたミラージュは、もう笑いも泣きもしない。穏やかに眠っているような顔のまま。
ただ、その雨がミラージュの流した涙のように思えて、クリプトは、また深い溜息を吐き出した。
さらにレインコートを全て取り去ると、的確に撃ち抜いた心臓部分には銃痕が残っており、ミラージュが目立たない事を意図して着ていた黒い戦闘用衣装にはどす黒い染みが広がっていた。
クリプトは力の抜けたミラージュだったモノの脇に両手を差し込んで引き摺ると、掘っていた穴へとそれを滑らせる。
ピッタリと収まるように掘られた穴の底に収まったミラージュを見て、ただクリプトは一度目を瞑った。
(……コイツの為に泣くなんて、そんな資格すらも俺には無い)
ほうと吐き出した息はやはり白く上っていく。
クリプトはミラージュの持っていたバックパックのポケットに入っていたミラージュと彼の母親との写真を取り出すと、それをミラージュの胸元へと落とした。
この後の安らかな旅路への贈り物は、きっとこれだけで良い。
武器も、銃弾も、奴らとの通信用の端末も、彼の世界にはもう必要ないのだから。
そうして、ミラージュが持っていたもう一枚の写真。クリプトと唯一撮った、たった一枚の写真。
それから、以前に揃いで買ったシルバーに輝くリング。ミラージュの胸元にチェーンで掛けられたそれは、既にクリプトが回収していた。
「……悪いな。これは、俺が貰っていくぞ」
ポケットに忍ばせた写真と、左手の薬指に付けていた指輪に重ねるように、僅かにサイズの大きい指輪を重ねていたクリプトは小さく囁く。
ミラージュが「演技だ」と言った優しさが、クリプトの脳内で反響する。
この愛はきっと、呪いのように俺をこれからも苦しめ続けるのだろう。
愛しているからこそ、様々な呪縛から救ってやっただなんて、そんな傲慢な事を言うつもりは無かった。
どれだけ綺麗事を言った所で、死んでしまえば何も残りはしない。
自分可愛さに、自分の家族の為に、俺は愛していた男を自分の手で殺して、そうして自らの手で埋葬する。
これ以上の地獄があるのだろうか、とクリプトは薄ぼけた視界の中でそう思う。
「さよなら、エリオット」
――――お前がどう思ったかは知らないが、やっぱり俺はお前を愛していたよ。
そう唇の中で噛み殺された言葉が外に出る事は、決してなかった。
その後、放り投げたシャベルを再びつかみ取ったクリプトは、掘った時よりもより一層ゆったりとした動作でただ、穴へと土を被せるだけに徹した。
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