パブロフの猫



 パチン、という小さな音が集中していた筈の脳内へと押し入ってくる。
 だが、それを感付かれるワケにはいかないとラップトップに向けていた視線を動かす事なくキーボードを叩く。
 パンタグラフ式の薄いキーボードは、コードを打ち込むために素早く叩いたとしても、そこまでの鍵打音はしない。
 だからこそ、こんな風に本来なら気にも止めない筈の音が耳に入ってくるに違いない。……そうなのだと思い込みたかった。

 こんな事なら、ほぼほぼ自分の仕事部屋として使っている一室で作業をしていれば良かったと思うものの、流石に【ゲーム】も無い日に部屋に閉じ籠り続けるのは、近頃、なし崩し的な理由で同居を始めた相手が美しいヘーゼルの瞳にうっすらと悲しみの色を湛えるだろう。
 だから、敢えてリビングルームに置かれたソファーでコードの確認を始めたのが良くなかった。
 ソファーの前にはガラスと木材で作られた黒いローテーブルと、二人暮らしだというのに60V型のテレビが置かれており、無駄に広い画面には控えめな音量で昼の情報番組が流れている。
 カーテンが開かれた窓の外には、ハタハタと風に吹かれて揺れ動く洗濯物とその奥に見える晴れやかな青空。
 アパートメントの高層階を選んだのに加えて、万年乾燥しているソラスでは洗濯物もすぐに乾く。少しばかり砂っぽくなるのが玉に[[rb:瑕 > きず]]だったが、ここの住民でそんな事を気にしているような奴は余りいない。

 また、パチ、と小さな音が連続して響いた。
 隣を見ないまま室内を観察するように動かしていた視線をラップトップの画面に戻す。
 大丈夫、何も変わった様子は見せなかった筈だ。
 だが、コードを叩いていた指先が一瞬、打ち慣れた筈のそれをしくじりかける。
 なんでだなんて、自分が最もよく分かっていた。けれど、それをむざむざ認めるのが嫌だった。

 今日は俺も同居人であるミラージュも久々にオフだった。
 俺が壊したいと願っている【ゲーム】は年がら年中開催されており、怪我をしたとしてもすぐに回復させられるだけの高度医療設備が整っているからか、過酷な仕事の割りには休みが少ない。
 それに加えて、レジェンド達にはそれぞれ有名企業のスポンサーがついており、【ゲーム】外での仕事も多い。
 そうして俺もミラージュもレジェンドとしての仕事とは別の仕事も行っているモノだから、片方がオフでも片方が仕事だなんていうのは、しょっちゅうだった。
 それが嫌だから一緒に住もうなんて言い出した相手に何度か渋い顔をしたものの、結局その提案を受け入れたのは、俺自身も何度もリスケされるデートの回数が数えきれない程になった辺りだった。
 誰かと住むなんて【クリプト】になってからはあり得ないと思っていたのに、寂しさに負けたのだと情けない気持ちにならなくもない。
 でも、朝起きて、夜、仕事から帰ってきて、【ゲーム】がある日でも無い日でも隣で眠る相手の温もりが寂しい気持ちを埋めてくれるのは確かだった。
 そうして、オフだというのに朝起きて食事を済ませた後、すぐにドローン内部コードの調節作業に取りかかった俺に何を言うでもなく、隣に座っているミラージュは粗方の家事をこなしたようで、先程までは大人しくスマホを弄っていた。
 午後は買い物に行こうと約束しているのだから、午前は好きなようにしていて構わないと伝えたのに、オフの日でもコイツは大体俺の隣に座ってくる。
 どうせ作業が終わるまで自分から話もしないような人間の傍に居て、何が楽しいのか俺にもわからない。

 それでも時折こちらの様子を確認してコーヒーの入ったマグカップを持ってきたり、不意にくだらない会話を投げ掛けて来たかと思うと、ひたすら話続けるミラージュはこちらが思うよりも楽しそうな表情をしているものだから、結局、俺も俺で奴の取り留めの無い会話を聞いてはいちいち反応を返してしまう。
 その内容がどれだけくだらなくても、つまらなくても、それでも反応されなくて寂しそうな顔をされるのが、嫌だった。惚れた欲目とでもいうのだろうか。
 特に一緒に暮らすようになってからは余計にそういう時間が増えた。
 関わり合う時間が必然的に増えたからだろう。

 それでいて、【ゲーム】内外問わず、この男は一生うるさい奴かと思えば、自宅に居る時は案外静かだったりもする。
 黙って技術書を読んだり、真面目にホログラム装置を調整している横顔。
 そういった表情を見る度に、この男も【レジェンド】と呼ばれる存在の一人なのだと実感する。
 大体そういう静かな時は俺がかなり忙しそうにしている時にのみ垣間見れるものだから、俺はついチラチラと横を見てしまって、結局集中出来ない。
 その横顔を思い出したタイミングで、パチン、パチンと再び音がする。
 そのまま、カタ、という音をさせて持っていた物をローテーブルに置いた男が今度はサリサリと小さな音をさせ始めた。
 全て終わって最後の仕上げという状態なのだろう。
 俺はついに指が止まったのを自覚して、我慢していた顔を横へと向けた。

 視線の先、真剣な顔をしたミラージュが切り立ての爪先をヤスリで一本ずつ丁寧に整えている。
 ローテーブルの上に置かれたティッシュペーパーに落ちる粉塵の一つ一つまでは当然、見えない。
 でも、それを整えているミラージュの姿は見慣れていた。
 以前、「どうしてそんなに丁重に爪を整えるんだ」と純粋に疑問に思って問い掛けた事があった。
 その時は、照れたような不思議な表情をしたミラージュの「イケてる男は爪先まで完璧にするもんなんだよ」という言葉に、まぁ、そんな性格だったなと納得していたのだ。
 だが、ある時から気がついてしまった。
 男が爪を特に丁寧に整えるのはオフが重なった日で、そうして、過去に俺が中を暴かれる際に控えめに痛みを訴えてからなのだという事に。
 それに気がついてからは、もうダメだった。

 手先をよく使うエンジニアらしく、白い爪半月のしっかりと浮かび上がっている爪甲と丹念に磨かれ平らにされた爪先。
 その健康そうな爪のついた指は俺の物よりも太く、武骨さを宿している。
 そんな具合であるのに、バーテンダーとしての仕事の関係上、見目が大切であるからか、ケアされてさらさらと触り心地のよい滑らかさを有した手の甲の皮膚。
 しっとりとして厚みのある掌は、高い体温をより明確にこちらへと伝えてくる。
 特に、こちらの肌を擦る為に纏わりつき、中を探られる際に尻を包むように添えられる感覚が身を焦がす。
 いつしか、爪を切る男を見る度にそんな事を思い出すようになってしまっていた。

 一種の刷り込みのようなそれに、わざわざこちらが意識をしている事なんて悟られるワケにもいかず、ただその音だけ聞き流すつもりだったのに、やはり無理なのだ。
 だって、こうしてコイツと休みが合う事自体が久々で、ずっと忙しいのもあってそういう行為に及んでいない。
 俺達はなんだかんだと一度そういう行為の為にベッドに入ってしまえば、互いに、ふやけてしまうのでは無いのかと思うくらいに触れあってしまう癖がある。
 若さや普段から死に近い場所に立っているからと言えば格好もつくだろう。しかし、それ以上に相性が良いのだというのを俺はとっくに納得出来ていた。
 戦闘時も、最初の頃は噛み合わずに言い争いになる事が多かった。
 それがシーズンが重なる度に相手の行動の意味や思考を察する事が出来るようになった。
 そうして、今では大体何を言わずともミラージュがいつ戦いを仕掛けたいのか、逆に俺がどういうルートや作戦を練っているのかを敵味方関係なく察してしまう。
 つまり、普段の時だってそうなのだから、夜になればいっそうの事。

 膝の上に乗せていたラップトップの蓋を閉めて、ローテーブルにそれを置く。
 そのまま隣で爪をやすっているミラージュの肩に頭を寄せると、ピクリと肩の筋肉が動く感覚が伝わってきて、うっすらと微笑みが洩れた。
 「なんだ、もう作業終わったのか? それとも腹減った? まだ昼飯の準備してねぇからちょっと時間かかるぞ」
 「……調整はもういい。それより、午後から買い物に行くんだろ? 何を買うつもりなんだ?」
 「終わったのか! そりゃいい、最高だな。今日は夕食用の食材と、洗剤だろ……あと、んんー、なんだったかな……思い出せねぇ……クリプちゃん、分かる? ほら、一昨日に俺がなんか少なくなってるって言ってたろ」
 「シェービングクリーム?」
 「お! それだそれ! 良かった、買い忘れたらめんどうだからなぁ」
 こちらの声掛けに途端に嬉しそうな反応をするミラージュがどれだけ喋るのを我慢していたのかを察して、その健気さが心地よい。
 こういう所が"意地悪"だとたまにミラージュに指摘される時もあるが、口から生まれてきたような男が俺の為に大人しくしようと努力している様子は、いくら見ても可愛らしいと思う。
 俺はさらに寄せた肩口に頭をすり寄せ、会話の合間にもミラージュの爪が整えられていくのを見つめる。
 そして、次々と手早く動くヤスリは全て整え終わったのか役目を終えたとばかりに、ローテーブルの上へ音も立てずに置かれた。

 残ったのは短く切られて綺麗になった十本の爪。
 健気さと幾ばくかの陽気さを併せ持ったミラージュの優しさの象徴とも言える爪が乗った太い指が、セックスとなれば俺を乱暴にほどいて崩していく。
 それを恐ろしいと思っていたのは束の間の出来事で、今ではどこか待ちわびている自分が居た。
 「なぁ、ウィット」
 「どうした、クリプちゃん」
 「今日は昼飯を外で食べないか? それから買い物に行って、買うべき物を買う」
 「ん、ん? ……そう、だな?」
 凭れかけさせたミラージュの肩の先にある右腕を指を這わせつつ撫でる。
 そのまま上から被せるように左手で右手を握り込んでやった。
 極力声色も表情も変えずに、手を握る力を籠めたり緩めたりする俺と違って、段々と態度がしどろもどろになって、繋いだ手から伝わる体温が上がっていくミラージュに口端だけを動かして含み笑いをする。
 分かりやすいのか、分かりにくいのかこの男は未だに読めない。
 手指なんて目じゃないくらいに、俺達はもう何度も深い場所で繋がっているというのに。
 「それは……いいな、うん……そうだな……それがいいかもな?」
 「そうしたら、帰ってきて、少しばかり"昼寝"でもしようじゃないか」
 繋いだまま爪の先端をなぞる。
 つるりとした硬質さを持つそこは、ざらつきの一つもない。
 ゆるりと絡んでいる指に向けていた視線をあげると、目の奥の色を変えたように見えるミラージュと視線が絡む。
 コイツが俺に知ってか知らずか条件付けをしたように、俺も俺で誘う時はわざと特定の言葉を使うようにしていた。
 飼い慣らされた事へのせめてもの意趣返しのつもりであったが、結果としては悪く無いように思えてしまう時点で俺も相当甘いのだろう。
 「……分かった。そうだな、そうしよう……あー……なぁ、……やっぱり、先にするのは……?」
 「ダメだ。帰ってきたら、だろ。……さぁ、出掛ける準備をしようじゃないか、俺は腹が減った」
 するりと手を離して名残惜しげなミラージュから離れるようにソファーから立ち上がる。
 そうして、ローテーブルの上に置かれたミラージュだった細胞の欠片達と、小さな爪切りとヤスリにさりげなく目を向けると、勝手に浮かぶ生唾を飲み下した。






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