鍵を開けて入り込んだ先、埃っぽく淀んだ空気が身体へと纏わりつく。
数日間、ほぼ走り回っていたのもあり、汗ばんだ服に加えて、ろくに風呂にも入れずにいたからか、換気されていないのが明らかな空間に不快感を覚えた。
けれど、この程度の気分の悪さなど、これまでに比べたらどうという事はない。
室内を確認する為にドア横のスイッチをオンにすれば、低い天井にある切れかけたライトがチカチカと明滅してから辺りを照らし出した。
そのまま、少しだけ明るくなった視界で薄汚れた壁に走る大小さまざまなシミを見遣る。
天井の隅には小さな蜘蛛が巣を作っていて、部屋を飛ぶ羽虫の何匹かを捕食していた。
左隣の部屋からは、若い女の媚びた嬌声。
右隣からは、薬物のバッドトリップにでも苦しんでいるのか、男の獣のような唸り声が途切れ途切れに聞こえて、それが不協和音としてただでさえ薄暗さのあるこの部屋を満たしていた。
それでも数日ぶりに壁も屋根もある所で眠れる。
狭い室内にはシーツ交換などほぼされていないであろうシングルベッドが置かれており、正面に見えるヤニで煤けた薄手のカーテンの向こうには、そこまで離れていないスラム街の雑居ビルの壁面が見えるのだろう。
カーテンを開けるつもりは端から無かった。
出来ることならば、なるべく自分の痕跡を残したくない。
そして、外に無数に存在するであろう俺を探す視線が怖かった。
猫の額程度の廊下を抜けた先、部屋の右側に置かれたベッドにのろのろと腰掛けると、無造作にサイドテーブルに置かれたリモコンに手を掛ける。
後ろから男の狂乱と、前からあえやかな女の声が聞こえるのを無視してテレビを着けた。
ガイアをどうにか指名手配される前に抜け出し、ソラスへと脱出する選択をしたのは間違いではなかったらしい。
ちょうどスイッチを着けたタイミングで、安モーテルに置かれた映りの悪い旧式テレビには、ガイアの製薬会社をスポンサーとしている格式張ったニュース番組が小さな音量で流れ出し、それに目を向けると、身体への疲労がさらに募る感覚がする。
何故なら、殺人犯として仕立て上げられた自分の写真が画面中央に堂々と映り込み、その行方をガイア警察が探しているとアナウンサーが神妙な表情で伝えていたからだった。
それをいつまでも見ていると陰鬱な気分がより増す気がして、魚のような生臭さの残るベッドの上に置いたリモコンで再度チャンネルを回せば、今度は馬鹿馬鹿しく笑い声を立てる人々が映って、結局はテレビの電源を落とす。
人生の転機とは、こうも呆気なく訪れるものなのだろうか。
『まさか自分が』なんて、そんなのは誰しもが思うものだ。
隣の部屋で叫び狂っている男だって、クスリなどやらなければと思っているのかもしれない。
でも、それはもうどうしようも無い事実として目の前に横たわり、俺の人生に居座ってしまった。
俺は、シンジケートという虎の尾を踏んでしまったのだ。それは変えられない真実としてそこにある。
意図していなかったとは言え、怒り狂った虎は、どこまでもこちらを探すのだろう。
そうして、パク・テジュンは殺人犯として今後一生、追われ続ける事になる。
それこそ"俺"が死んでしまうまで。
ブルリと背筋に寒気が走る。腕にプツプツと鳥肌が立って、改めて自分自身の置かれている状況を|反芻《はんすう》する。
もう戻れやしないのだ、以前の生活にも、以前の自分にも。
胃の奥に落ちる鉛のような重さが、これを現実なのだと自覚させる。
俺は、既に戻れない場所に立ってしまっていた。
今後、母とは二度と会えず、愛する妹とは連絡も取れない。
生涯を昔と同じくそれこそ地を這うドブネズミのように生き続ける。
ようやく普通の生活に慣れた俺にとって、その想像は何よりも苦痛で仕方がなかった。……でも、俺はあの無力で無知だった子供の頃とは違う。
ずっと背負っていたリュックを下ろすと、膝の上へと置く。
逃亡中に慌てて見繕った物ではあったが、防水性に優れていて内容量も多い。
その黒地のリュックのジッパーを開けると、中から白く輝くドローンやシンプルな小型ラップトップ、そうして紙袋を取り出す。
自分が趣味で開発していたドローンの試作品であるハック。コイツは俺が逃げる際にとても役に立ってくれた。
今は電源の落ちているそれの表面を指先で労るように撫でる。
ガイアから脱出する際にかなりバッテリーを消耗していたから、ラップトップと一緒に充電してやらなければならない。
ベッド脇にあるコンセントを確認してからそれら二つにコードを繋いで充電しつつ、すぐにハックを待機状態へと移行する。
万が一、急に"奴ら"がこの部屋に入ってきても困らないように。
今後、ずっと"奴ら"を意識し続けなければならない人生が続く事に溜め息を吐き出しつつ、先ほど取り出した紙袋を持ってベッドから立ち上がった。
ギシ、と古ぼけた音を立てたそこを後にして、廊下にあった一枚のドアの前へと向かう。
おそらくユニットバスだろうとドア横のスイッチを押してドアを開ければ、湿っぽさの残る洗面台とトイレ、そして人一人がようやく入れるであろうバスタブが見えた。
バスルームにしては妙に青白い光の中、水垢が張り付いているバスタブに一度視線を投げてから洗面台の前へと立つ。
僅かばかりのスペースに設けられた洗面台の上、曇りかけた小さな鏡が壁面に付けられている。
そうしてそこへと顔を向ければ、落ち窪んだ目でこちらを見ている俺の顔が映っていた。
眼鏡は逃亡中に少しでも印象を変える為に外し、慣れないコンタクトへと変えていたからか、ハッキリと自分の顔が見える。
元々、血色が良い方ではないがライトの影響もあって、紙のように白くなった顔色。その上、白目は充血して赤い毛細血管が走っている。
唇は赤みを失い、土気色にすら見えた。
よくこんな顔色をした人間をカメラ越しに見ていたであろう管理人が泊めたものだと思うが、両隣に居る人間達を|鑑《かんが》みれば、俺などまだマシな方なのだろう。
そもそもカメラなど見てすらいなかったかもしれない。それならそれで、こちらにとっては都合が良い。
そんな事を思い返しながら、まるで死人のような顔をした自分を食い入るように見つめる。
ある種、その感想は間違いではないのだろう。
これから俺は、"俺"を殺すのだから。
手に持った紙袋から道中で購入した切れ味の悪そうなハサミと、中古のバリカンを取り出す。
新品を買おうか迷ったものの、特にこだわりなど無かったのもあって、一番安い物を選んだ。
これから金は、より一層貴重な物になる筈だ。
口座を凍結される前に、元から用意していた別名義の口座に移動させておいたが、それがどう動くかもまだわからない。
無駄に準備を念入りにするタイプなのがここに来て、このように上手く作用するとは思っても見なかった。
そして、念入りに自分を殺すには、幾らでも金がかかるものなのだと笑えもしない冗談が頭を|過《よぎ》った。
ドアの向こうから、一際大きな叫び声が聞こえる。
それによって逃避していた思考が戻るのを感じた。
目の前に視線を戻せば、鏡の向こうでハサミを持った俺が居て、反対の手でパサついた髪の先端を握り込んでいる。
自分の髪を自分で切るのは、今まであまりしたことが無かった。
小さい頃は母がしてくれて、孤児院を出てからは『美容室に行きなさいよ』なんて、そんな面倒臭そうな声でボヤキながらも妹がしてくれたからだ。
感情渦巻く心の中で、自分に言い聞かせるように髪を引く。
躊躇うな、迷うな、そんなに難しい事じゃないだろう。
ハサミを滑らせれば、あっさりと長くなり始めていた毛先は俺の掌に落ちた。
余りの呆気なさに、じわりと目の縁が熱くなる。
それを無視して、さらにハサミを入れてしまえば、紙袋の中にはどんどんと黒い髪が降り積もっていった。
これは、パク・テジュンとしての俺だ。
母との邂逅、院で出来た家族達、誰よりも側に居てくれたミラ。
一本一本に残る思い出を削ぎ落として、俺はそれを誰にも知られぬように燃やしてしまおうとしている。
もしも復讐を遂げられなければ、俺はこの髪と同じように、真実を知られる事もなく、キム・ヒョンという知らない人間の名を墓標に刻まれるのだろう。
頬を伝う雫が顎先を濡らすのに気がつかないふりをして、今度はバリカンを手に取る。
切り始めたものの、どういう髪型にすべきなのかをずっと考えていて、とりあえず全体を少し短くはしたが、そこで指先が迷う。
俺は今後、APEXに参加するつもりでいた。
一生を逃げ回って生きていくよりも、一か八かで虎穴に入ってしまった方が良いと思ったからだった。
もう死んでいるようなモノなのだ、どうせならば僅かな可能性に賭けたかった。
そこで不意に、彼女達が好みだと言っていた男の顔がボンヤリと浮かび上がる。
"ミラージュ"なんてキザったらしい名前の男は、いつだって軽薄そうで安っぽい笑みを振り撒いていた。
でも、もしも俺がAPEXに潜り込む事が出来たとして、アウトランズ中に姿が放映された時、あのミラージュという男と同じような姿をしていたら母や妹は注目してくれるかもしれない。
願わくは、俺が生きている事がそこから伝わるならそれが一番良い。
ミラージュという男を彼女達が好む理由は今でも分からなかったが、迷っていた手が自然と動くままに短くなった後頭部を刈り上げていく。
時折、刃が絡んで痛みを覚える時もあったが、それすらも振り払い、あの男のように両側も刈り上げていた。
素人なのもあって、上手く切れたとは到底言い難いが、少なくとも印象はだいぶ変わっただろう。
そうして切り取った髪を全て紙袋へとしまい込み、鏡へと真っ直ぐに視線を向ける。
自分であって、自分では無い男。
いつしか流れていた筈の涙は乾いていた。
目元の腫れだけがその名残を覚えていたが、それすらもすぐに消えるだろう。
忘れろ、と脳内で囁く声がする。過去の自分を忘れてしまえ、と"俺"が言う。
そうして、あの男のように、笑え。
――――笑え! 今すぐに!
「……ッハ……」
鏡の向こうで見知らぬ男が笑う。
けれど、これではまだ足りない。もっと不敵に、どんな敵にも屈しない、そういう人間性が出ていなければ。
接着剤でもつけられて固まっているんじゃないかと思うくらいに硬直した顔の筋肉を動かし、唇を動かす。
ギリギリと音を立てていると錯覚しそうな程に顔が痛んだ。
でも、生き残るのに笑顔が必要だというのなら、浮かべてやろう。
それが自分を守る盾になるなら、俺は幾らだって嘘をつく。
生きてさえいれば、逆転の目は絶対にどこかで見つかる筈なのだから。
そう強く念じつつ、瞬きの後に鏡を見遣れば、片方の口端を上げたぎこちない笑みを浮かべた男が立っている。
まぁ、先ほどよりは悪くない。これで余裕そうにウィンクでも出来れば申し分無いだろう。
ドアの向こうでは、丁度何もかもが終わったのか、ピタリと何の音もしなくなった。
「そう、それでいい。……チャレッソヨ」
囁く声は一体、誰の声で誰に向けられたものなのかすらわからない。
ただ唯一言えるのは、俺はこれからキム・ヒョンとして生きていくという事で、パク・テジュンという男はこの中へと全て押し込まれている。
下げた視線の中、紙袋の奥に潜む髪の束を見つめた。
さようなら。とても弱くて、世界を疑う事などなく、何もかもを信じていられた男。
ただ、今は、安らかに眠れ。
俺はその紙袋の上を丁寧に折り畳んで、一房も洩れないようにする。
これは夜中の内に処分してしまおう、無意識にクシャリと紙袋を握りしめ、閉められたトイレの蓋の上へと置く。
明日はカメラの認証をずらす為のデバイスをいち早く取り付けなければ、と汚れた首筋に緩く爪を立ててからシャワーを浴びる為にワイシャツのボタンに手を掛けた。
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