You're my Polaris



 ボタボタと重く湿った音がカーテンの開かれていない窓の外で響く。
 セーフハウスの寝室に置かれたベッドの中にすっぽりと潜り込んでいても聞こえてくる雨音が、それだけ今日が大雨なのだという事を伝えてきていた。
 いつもは乾燥してばかりのソラスにしては珍しい。だが、本日の【ゲーム】開催地であったオリンパスの地では恐らく雨は降っていなかったのだろう。
 二時間程前までは枕元で淡い光を放っていたスマホを少しだけ惰性で見ていたから、【ゲーム】が恙無く終了した事だけは中継で知っていた。
 しかし、誰が今日の勝者だったのかは知らない。そんな事を気にしていられる余裕がもう無かった。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 その繰り返しの合間に右側頭部にズクズクと波打つような強烈な感覚が襲ってくる。
 勝手に目尻に浮かぶ涙を拭う事も出来ずに暗闇の中で身体を丸めて、グッと歯を噛み締め、襲い来る波を堪えようと試みる。
 皺の寄ったシーツの上を滑る素足の指先と、冷や汗の浮かぶ額、ゾワリと総毛立ち吐き気すらこみ上げてくるくらいの痛みにどうにか叫び出すのを押さえた。
 この痛みは慣れている、慣れているが、今日は一段と酷い。
 本来ならば俺も今日の【ゲーム】に参加する筈だったが、朝から繰り返し起こる頭痛の発作に堪えきれず、今日は急遽《きゅうきょ》オフにして貰っていた。
 この程度で休むなど、と思わなくもなかったものの、【ゲーム】に参加していたとしても、恐らく降下した直後から動けなくなって棄権していただろう。
 その位に今日の朝から巻き起こっている発作は酷いものだった。
 不意に訪れる脈打つような痛みが少し和らいだと思った瞬間、一気に痛みを増す。
 肺から零れ落ちる悲鳴混じりの吐息がベッドの中で掻き消されていくのだけを鼓膜が拾った。
 大丈夫。しばらくすれば落ち着く、嵐が過ぎ去るのを祈るように、ただ息を潜めて待っていればいい。
 「……ッあ、ぐ……」
 必死で自らに言い聞かせるようにそう念じながら、掠れそうな思考を纏めようと、閉じた瞼をひと際強く瞑った。
 最近はこの発作も無かったせいで、手元に頓服薬が無い事が酷く苛立たしい。
 いつだって準備は万端だと、普段はデカい口を叩いているクセにと、過去の自分の準備不足を呪う。
 でも、これは罰なのだと、汗を掻き冷えた手足がさらに温度を低くしていくのを少しでも止める為に自分を抱きしめている腕に力を込める。

 俺は、あんなにも優しい男を容赦なく傷つけ、そうして突き離した。
 だからきっとこの痛みは、あの男が受けた痛みがそのまま返ってきているに違いない。
 閉じた瞼の裏、三日前、最後に話したミラージュの悲しそうな顔が浮かび上がる。
 いつもはへらへらと笑っているアイツが、一度、スゥと目を伏せて眉を顰めたあの表情。
 厚い唇が何かを言おうとして何度か閉じたり開いたりする様を見ていられなくて、俺はその場を立ち去った。
 アイツは何も悪い事などしていない。ただ、俺が怖がってしまった。たったそれだけ。
 「……すまない……」
 聞こえるワケも無いのに勝手に唇から謝罪の言葉が洩れる。
 そんな声は外で降りしきる雨よりも小さく、湿っていて、シーツの中へと吸い込まれるばかりだった。
 それなのに一度出た言葉は止めどなく勝手に唇から洩れては真っ暗な部屋の中で唯一、しっかりと聞こえてしまう。
 また揺り戻ってきた頭が割れそうなくらいの激痛の中で、いっその事、気絶してしまえたらいいのにと願う。
 頭痛からなのか、それとも胸の苦しみからか分からなくなり始めた思考がぐちゃぐちゃに混濁する。
 苦しい、つらい、このまま何もかも忘れてしまいたい。
 この痛みから解放されるのなら、殺してくれたっていい、と良くない考えすら頭に過ぎった。
 弱気になるなと自分にずっと言い聞かせて生きてきた。でも今日だけはその誓いを破りたくなる。
 押さえていた筈の声が次第にすすり泣きに近い音になるのを止められない。
 「……?????……ウィット……」

 初めはただの面倒な男で、バカなヤツだと思っていた。
 その内に会話をする回数が増えて、俺にとっては一生忘れられないだろうあの事件が起きた時、アイツは疑われていた俺を庇ってくれたたった一人の人間だった。
 そこからだったのかもしれない。【ゲーム】に参加するアイツを気がつけば目で追うようになってしまったのは。
 普段は茶化すような言動ばかりのアイツが、同じチームで【ゲーム】に参加した時、倒れた俺を真っ先に助け起こしに来た事があった。
 クロークを発動していたので中継カメラからも見えないだろうミラージュの必死な顔が目の前にあって、俺はその時、初めて自覚してはいけない感情を認識してしまった。
 ――――こんな風に他人に恋をしている暇なんて"クリプト"には存在していない筈なのに。

 それでも一度自覚してしまえば、どんな些細な一言や手付きですらも気にするようになってしまった。
 共に戦う同じ部隊として【ゲーム】の中で完璧なコンビネーションを決めた瞬間、逆に敵部隊として最終リング間際で相対した高揚感。
 どんな時だってアイツは俺の前に光を纏って、近いけれど、けして手の届かない場所に居る人間として立っていた。
 内側から発光しているかのような美しさを宿した男が、俺の前で、俺だけを見て、楽しそうに笑って、そうして俺への殺意を持つ。
 なんて、なんていう幸福な時間なのだとそれだけを思ってしまった。それだけで、俺は満足だった。

 それなのに、【ゲーム】が終わった後にミラージュから何度断っても誘われる飲み会に参加してしまったのが間違いだったのだ。
 境界線を自らに設けた筈で、一度そこを越えてしまえば拒否出来ないのは分かっていたのに。
 そこからは互いに距離がドンドンと縮まっていくのを、自分でもダメだと思いながらも止められなかった。
 愛する人など必要無い。それはただの弱みにしかならないと知っていたからだった。
 心を傾ける存在が増えれば増える程に行動がしにくくなるのを、俺は随分と前から身をもって知っていた。

 だから【ゲーム】だけで、プライベートに他人を入れるつもりなんて無かったのに、何回か誘われ共に飲んだ後、ミラージュの自宅に誘われた時、俺は断るという行為の概念すら忘れてしまっていた。
 初回はその日の【ゲーム】展開や他のレジェンドの話をして、二度目は好きな料理や酒の話、三回目はミラージュオススメの映画を観て、その時には俺が好きだと言った料理をたくさん用意してくれていた。
 四回目には、どんな人間が好きなのかという話になって、俺はどうしても上手く答えられずにいた。ミラージュの目が、真剣に俺の答えを求めているように見えて。

 淡い期待などしてはいけないと自分に言い聞かせた五回目。
 ソファーに隣り合って座っていたミラージュの手がこちらに伸びて、俺の手を掴んだ。
 熱くて湿った掌がピタリと触れ合って、躊躇い混じりに長い指先がこちらの指に絡むその感覚を今でも鮮明に覚えている。
 離さなければと思う脳内とは裏腹に、俺はその手を離す事が出来なかった。……離せるワケが無かった。

 その日から俺達の関係性は明確に変わっていった。
 好きだとは言わないものの、ハッキリとした言葉にはしない分、ミラージュのヘーゼルカラーの瞳がこちらを熱っぽく見つめるタイミングが増えた。
 互いの挙動を誰にも気が付かれないように意識しあうその行為や駆け引きが分からない程に、俺もアイツも幼くは無い。
 どちらが本音をぶつけるのが先か、堪えられなくなるのはどちらか。
 恋をしている時が一番輝いているというのは、あながち間違いでは無いと理解したのは、ミラージュの瞳がこちらを見つめているのを知りながらも敢えて視線を合わさずにいる時だった。

 このままでは、あの男の光を求めてしまう。
 いっそのことそれでもいいんじゃないかと、脳内で騒ぐ自分を黙らせたくて仕方がなかった。
 もしも、仮にミラージュの手を掴んだとして、俺はアイツを守り切るなんて出来やしないだろう。
 どうしたって自分の事を最優先してしまうだろうし、ミラージュに自分の秘密を伝えるなどという恐ろしい事なんて出来る筈がない。
 誰も彼も敵に見える世界なんて、生きていて苦しいばかりなのは一番に知っているのに。

 だから、ミラージュが遂に決心したように真面目な顔をして俺に『好きだ』と言った時、 それは勘違いなんだと笑った。
 そうして、『俺はお前の事をきっと好きにはなれない』と残酷な嘘をついた。
 『お前は俺を友人だと思っていないのだろうが、俺にとってお前は友人の一人に過ぎない』と、軋む胸を押さえつけてそう囁いたのだ。
 友人の一人なら、俺がこれ以上、ミラージュに寄り掛かってしまう心配も、俺のせいでミラージュが危険な目に合う可能性も低い。
 あくまでも、【ゲーム】という異質な空間で培われた異質な友人関係が、お前を狂わせたんだと、そうやってミラージュと自分自身を納得させようとした。
 そうでなければ、二人にしか分からないだろう密やかに重ねられるやり取りに、俺は間も無く陥落すると確信していたからだった。

 もしも、自分が"パク・テジュン"でなかったなら。
 そうだったなら、きっと迷わずその手を取った。
 でも、俺が"クリプト"になったのは自分が"パク・テジュン"だからだ。そこは切り離す事など出来ない。
 そして、"ミラージュ"に出会うとしたら"クリプト"にならなければ、互いが永遠に交わる事はなかっただろう。
 だからきっと、俺達には最初から未来なんて無かったんだと思うしか出来なかった。そう思うしか、耐える術がなかった。

 不意にマナーモードにしているスマホが着信を告げる為にその身を震わせた。
 振動によって巻き起こる不快さを止めようと、ズキズキとした痛みから狭くなる視界で手を伸ばしてスマホをかけ布団の中へと引き込む。
 暗い中で輝くスマホの画面を見れば、半ば無理矢理に登録させられたミラージュの番号が映っていて、身体が固まった。
 何故、と思いながらも未だにコールを鳴らし続けているスマホを握る力を強めた。
 ここで出てはダメだと自分を叱責する。今の弱った己では、きっと言わなくても良いことを言ってしまう。
 でも、せめて、一言だけでも。
 あの男の喧しくも穏やかな声が聞けるなら、少しはこの苦痛も和らぐだろうか。
 『ッ……もしもし、……クリプちゃん?』
 震える指先が通話ボタンを押せば、慌てたようにミラージュの声がする。
 なんと返せばいいのか思い付かない俺の答えを待たずに、心配そうな声音に変化したミラージュがさらに言葉を紡いだ。
 『今日具合悪くて休んだんだってな? 大丈夫かよ、お前、今まで休んだ事一回も無かっただろ?……あの時も、結局全部の【ゲーム】にちゃんと出てたしさ……あんまり無理すんなよ。……いや、俺が言うなって思ってるかもしれねぇが』
 そこまで言い終えたミラージュの声が暗さを宿す。
 『俺が言ったこととか、勝手にまぁ、一人で盛り上がってた事とかさ……お前に負担かけてたなら、悪かった。本当に俺はもう気にしてないから! さっさといつも通りクソ偏屈な爺さんに戻ってくれよ! 俺も、……』
 一度、ミラージュの声が止まったかと思うと、ため息のような吐息が聞こえた。
 そのまま電話越しにでも辛そうな顔が見えるくらいの囁きが耳に落とされる。
 『……俺も、ちゃんとするさ……お前の……友達ってやつになれるようにさ……ッハハ、なんかお前とお友達ーって気持ち悪い感じもするけどよ! 今までと変わらず、上手くやってこうぜ? なぁ、おっさん』
 違う、と唇が動くが上手く音が出ない。
 お前は何も悪くない、そんな風に俺を庇って、きっと辛そうな顔をして、それなのに笑って。
 お前は何も悪くない。悪いのは全部俺だ。
 お前を勝手に好きになってしまった癖に、何一つ正直になんてなれない俺が悪いのに。
 
 「……ッ……ミラー……ジュ……」
 すまない、と囁く。
 それだけで電話の向こうでミラージュが息を呑んだ音がした。
 本当は好きなんだ、何もかも全部お前に話せるような、そんな人間だったら良かったのに。
 伝えたい言葉が喉元までせりあがって、それを必死に飲み込む代わりに頭と胸の痛みで滲む涙が目の縁からこぼれ落ちる。
 泣いたって喚いたって何も変わりはしないのに、それでも押さえきれない。
 『なんで、お前……泣いてんだよ……』
 困惑しているのが伝わってきて、早く弁解しなければと思ったタイミングでまた一段と激しい波が襲ってくる。
 「……っぃ、……あ゛……!」
 『クリプト? おい、どうした?!』
 「……い、た……い……」
 『痛い?』
 「……ッ……頭、が……」
 けれど弁解する前に逆に問いかけられ、痛みのまま素直に答えてしまう。
 こんな事を言ったって仕方ないのに、とシーツを握り込んで脂汗の出る額を枕に擦り付けた。
 ハァハァと息を整えようとどうにか肺を膨らませ、少しだけ散らした痛みの中でもう電話を切らないと、とスマホに指を伸ばしかける。
 『クリプト』
 だが、通話終了ボタンを押す前に、ミラージュの強い呼び掛けが聞こえて指先が止まった。
 まるでこちらの動きが見えているかのような真剣な声に黙り込んでいると、有無を言わせぬような口調でミラージュが声を上げる。
 『今からお前の家行くから、メッセージで住所送ってくれ。……どうせお前の事だからドアにセキュリティやら色々かかってるだろうけど、それは先に解除しとけ。いいな? 今すぐにだ』
 「……しかし……」
 『いいから。それだけ頑張ってくれ、そしたらすぐに行く。救急車は嫌なんだろ?』
 甘えてはいけないと思うのに、ミラージュの本気でこちらを案じている様子が伝わってきて、数瞬迷った挙げ句にそろそろと通話画面からメッセージアプリへとタブを移し、セーフハウスの住所だけを送る。
 来るなと言えれば良かった。でも、それを言った所で諦めないだろうミラージュの姿が容易に想像出来た。
 『……了解、すぐ行く。多分、三十分くらいで着ける筈だ。セキュリティの解除だけしておいてくれたら寝てていいから。分かったな?』
 「……ミラージュ……」
 『謝らなくていい。悪い、ちょっと急ぐから、一旦切る。何かあったらすぐに電話しろ』
 またもや、すまない、と言いかけた俺を止めるようにミラージュが俺の言葉を遮る。
 そうして走り出したのか、電話の向こうで微かに風を切る音がしたのと同じタイミングで宣言された通りに、電話の音が途切れた。
 なんでアイツはここまでしてくれるのだろうと、こんな展開になる事を読めなかった自分を責めたくなる。
 でも、結局はミラージュが来てくれると分かった瞬間から、安堵の気持ちが広がっているのを自覚していた。
 通話の切れたスマホを操作して、自宅内に設置しているセキュリティシステムにログインすると、一時的にドアのロックを解除する。
 いつもだったら絶対にそんな事はしない。他人にこの場所を教えた事も無かった。
 何故なら、世界中の全てが今の俺にとっては疑う対象に過ぎない。

 また強さの波が戻ってきた頭痛から逃れる為に目を伏せる。
 瞼の裏に映る、ヘーゼルの瞳の輝き。
 癖のある長い前髪の向こうから覗くその光を、俺はどうしたって自分を助けに来てくれる人間なのだと信じてしまっていた。

 □ □ □

 「……クリプト? ……見えないから、ここの電気一回つけるぞ」
 寝室のドアがキィと控えめな音を立てて開かれる。
 電話で聞いていた時よりも息を切らしたミラージュの声が、かけ布団の向こう側で聞こえた。
 布団の上からポンポンと身体を叩かれて、そろりと布団をあげれば、サイドテーブルに置かれたテーブルライトの穏やかなオレンジカラーの光に照らされたミラージュが、額に汗を掻いてこちらを覗き込むようにしゃがみこんでいる。
 心配そうに眉を寄せた表情をしているミラージュの全身は雨に打たれてじっとりと湿っており、いつも弄っている自慢の前髪はしんなりとして、ポタポタと先端から雫が落ちていた。

 まだ十五分程度しか経っていない。傘もささずにこの大雨の中を走ってきたのだろう。
 それだけ急いで来てくれた事に、何を言うのが正解なのかを一つも思い付かなかった。
 ただ、汗を掻きながら、息を切らしてここにやってきたミラージュを見ていると、無性に泣きたい気持ちになる。
 俺はお前の気持ちを見て見ぬふりをしてやり過ごそうとしたのに。
 「……なんで……」
 そっと捲った布団からゆるゆると身体を起こし、上半身を持ち上げる。
 それだけでくらつく頭を叱責しながら、結局はどうしたって聞きたかった問いが唇から洩れた。
 俺の問いの意味を理解したらしいミラージュの太い眉の片方が、困ったように上がる。
 そうしてこちらに手を伸ばしたミラージュの濡れていても相変わらず温かな掌が、こちらの頬をそろりと撫でた。
 呆れたような、それでいて仕方の無い奴だとでも言いたげな顔をしたミラージュと目が合う。
 「そんな事を今さら聞くなんて、お前もバカだな。……好きだからに決まってんだろ。偏屈な爺さんにはちと、難しい問題だったか?」
 はは、と軽やかに笑った声が耳を擽る。

 そんなに綺麗な顔で、目で、俺を見つめてくるお前が俺には眩しくて仕方なかった。
 愛しさばかりが募って、でも、けして届きはしない場所にいるんだと思っていた。
 最初から俺とお前は違う場所で生きるべき人間で、たまたま【ゲーム】という様々な思惑が絡まる場所で互いの利益の為に、共に戦うだけの存在なんだと、そう考えていた。
 そう考えていれば、段々とお前に惹かれ焦がれていく自分の心のブレーキになると信じていた。
 でも、そうやってお前が簡単に俺の予想を超えて、見いだせなかった筈の未来を語る。雁字搦めで動けない俺を、お前は臆病なクセにいつだって助けようとする。 
 だから、考えてはいけない筈の未来を、望んではいけない世界を、俺は夢見てしまう。
 これからもお前がずっと、ずっと、俺の隣で笑っていてくれるなら。
 たった一人きりで生きていくんだと、先の見えない暗闇の中で彷徨っている俺の道標になってくれたなら。

 「ミ……ラ……ッ……う、……」
 返事を発する前に、胃の中でぐるぐると嫌な感覚が巻き起きる。
 安心したせいでせき止めていた筈の吐き気が戻ってくるのがわかって、それを押さえ込もうと片手で口許を押さえるが、既に痙攣を起こした胃から逆流した胃液が口の中に溜まり出すのが分かった。
 もう無様な姿を見せてしまっているのにこれ以上、醜い姿を見せたくない。
 だが、そんな俺の葛藤の全てを包むようにしゃがみこんでいたミラージュがベッドに身を乗り上げ、こちらを軽く抱き寄せて背中を擦ってくる。
 「っ、は、……離せ……よご……れっぅ……ゲホッ……ぐ……」
 「大丈夫、全部ここに出しちまえ、な?」
 「う、……っぐ、……げ、……ほッ……!」
 嫌だと訴える為に唇を押さえる手に力を込めて首を横に振るが、またもや不意に訪れた頭痛に堪えきれず自らの掌に吐きかけてしまい、さらにはその下にあるミラージュのシャツを吐瀉物が汚していく。
 その間にもミラージュの背を擦ってくる手は止まることはなく、もう片方の手がこちらの頭を労るように撫でた。
 「一人で辛かったな。落ち着いたらすぐに準備して病院に行こう。大丈夫、お前には俺がついてる。このミラージュ様がな。なんにも、怖いことなんて無いさ……大丈夫……大丈夫だ……」
 耳元で子供をあやすような声が聞こえる。
 またもや知らず知らずのうちに落ちていた涙が頬を濡らし、そのままミラージュの肩に顔を寄せれば強く抱き締められた。
 濡れた衣服越しにでも分かる程の高い体温をしている鍛え抜かれた肉体と、雨によってほぼ匂いも飛んでいるが、僅かに甘く香る香水に混じったミラージュの汗の匂いが息を吸う度に身体を包んだ。
 ずっと欲しかった存在がここにいて、それに触ることを許されている。
 ダメだという心よりも先に、少しずつ痛みの減ってきた頭が命じるままに一度目を伏せる。

 だから、あの時、電話を取ってはいけなかったのに。
 後悔と、それ以上に傍にある温かさを喜ぶ感情が脳内を満たす中で、俺はシーツについていた方の手を動かして、ミラージュの胸元へと縋るように湿り気を帯びたシャツを掴んでいた。






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