ヘミングウェイを歌って



 「Inchworm,inchworm……」

 酷く掠れて音程の外れた小さな歌声がしんしんと降り積もる雪に混ざっては、頬を刺すような冷たい空気に溶けていく。
 その歌声の主であるミラージュの顔は蒼白く、歌声と一緒に吐き出された呼気は僅かに濁るのみでその身体が芯まで冷えきっているのを示していた。
 充血しきったヘーゼルカラーの瞳からは止めどなく大粒の涙が零れており、ボサボサに伸びたヒゲと鮮血に汚れた顔を濡らす。
 それでもなお、歌い続けるのは、ミラージュの傍らでミラージュの着ていたコートで腹部を圧迫され、止血処置をされているクリプトが『何か歌ってくれないか?』とねだったからだった。
 クリプトが悪夢に魘された時、ミラージュがその髪を撫でては子守唄のように何か一曲、優しく歌うのは、お互いにとって当たり前の習慣になっていた。

 白い雪原に横たわるクリプトの周囲はどんどんと赤い染みが広がって、纏っていた雪原に紛れるような白い防寒用の厚手のダウンコートすらも深紅に染まっている。
 同じくミラージュの着ていた白い防寒着の下でどうにか押し止められている、巨大な裂傷のせいで露わになった[[rb:腸 > はらわた]]が、微かな身動ぎでさえも脂肪の層を越えて外へと飛び出ようとするのを押さえるように、クリプトは静かに吐息を洩らした。

 "奴ら"の執拗な襲撃から逃れる為に、タロスの中でも人間が立ち入る事の無い『死の山脈』と呼ばれるこの場所に訪れた二人は、雪深い山脈の先にある国境を越える為に道無き道をひたすらに歩んでいた。
 そんな道中、冬眠から途中で目覚めてしまったらしい餌に飢えたプラウラーにミラージュが襲われ、それを庇うためにミラージュの前に飛び出たクリプトの腹をプラウラーの鋼鉄のごとき爪が衣服もろとも、いとも容易く切り裂き、パッと大量の血飛沫が舞った。
 それを見たミラージュが咄嗟に放ったウィングマンの弾丸は、見事にプラウラーの眉間を撃ち抜き、その哀れな獣は少し離れた場所で息絶えていた。

 ミラージュもクリプトも、もう何度も死地を乗り越え、どの程度の傷ならば死に至るかは言わずとも感じ取れる。
 そうして、クリプトの腹に残る三本の深い裂傷は、もう救う手立てが無いのを二人は理解していた。
 そもそも、追い立てられるようにこの山脈に向かわされ、巧妙に工作し、様々な場所に分散させていた筈のクリプトとミラージュ両名の口座をマーシナリー・シンジケートに強制的に全て凍結された時点で手元には残り僅かな物資しか無かった二人には、もう大した時間が残されていなかったのだ。

 苦しげな呻き声を盛らすクリプトを見ながら、ミラージュは傍らで死に絶えている獣を撃ち殺したウィングマンの弾倉を確認する。
 中に入っているのは丁度二発。終わらせるのなら、この二発だけで事足りる。
 ブルブルと寒さだけではない震えを帯びたミラージュの手がウィングマンの弾倉を元に戻すと、意識が混濁し始めているクリプトの胸元に向かってその銃口を向けた。
 安全装置を外し、撃鉄を起こす。
 後は引き金を引けば、愛する男は想像を絶するであろう苦痛から逃れられる。

 けれど震える銃口はうまく狙いが定まらず、ミラージュは滲む視界の中で上手く前が見えなかった。
 その間にも音もなく降る雪がクリプトとミラージュの身体に白く薄い膜を張っていく。
 不意にクリプトがミラージュの震える手に手を伸ばし、ウィングマンを握りこむ。
 そうしてゆっくりと取られたその銃を、逆に構えたクリプトにミラージュは泣き笑いのまま、クリプトを見つめ返した。

 ミラージュとクリプトの長い逃亡生活の間に、ミラージュの母は亡くなってしまった。
 その上、二人が共に逃げているのはもう周知の事実で、クリプトが居なくなった後にミラージュが一人で逃亡生活を続けるつもりは無かった。
 そうしてそれをクリプトはミラージュ本人から旅の途中で直接何度も聞かされていた。
 だから、その手付きが何を意味するのかを把握したミラージュは自らの身を寄せると、冷えきった氷のようなクリプトの銃を握る手に自らの手を重ねる。
 ピタリと胸元、心臓の脈打つ場所に銃口を押し当てたミラージュは、引き金に指をかけたクリプトに詫びるようにただ、目を瞑っていた。

 一発の銃声が白い世界に響いて消える。

 ドサリと力を失い、倒れ伏せたミラージュの顔には安堵の笑みが浮かんでいた。
 そんなミラージュの方に身体を向けたクリプトは、本来なら痛みで動けない筈の身体がアドレナリンが働いているのか、僅かにでも動く事を居もしない神に感謝していた。
 伸びきったヒゲと髪に、クマの残る顔は顔色が悪く、目元は泣いたせいで腫れている。
 厚みのある唇にどうにか触れあわせるようにクリプトが口付ければ、まだその唇はほんのりと温かかった。

 (……俺達は敗北したワケじゃない)

 クリプトはそう脳内で囁くと、どうにか動く手を動かして、今度は自分のこめかみにウィングマンの銃口を押し当てる。

 そうしてもう一発の銃声。

 その後は何の音もしない。
 ただ、踏みしめられた跡すら消えた美しい雪原に倒れ伏せた二人と、一匹の獣が居るだけ。
 そんな二人の姿を空から覆い隠すように降る雪は、勢いを止めないままただひたすらに柔らかく落ち続けていた。






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