看病



 またか、とその感覚が脳内を塞いでいくのに手が震える。
 まるで世界に黒い靄がかかったかのようなに、次第に周囲が濁っていくのが分かって苦しい。
 それと同時に額がぼうっとして、全身が気だるい。
 恐らく、発熱しているんだろうと確認の為に汗ばんだ掌を額に乗せると、やはり熱さの宿るそこにため息を吐いた。これは薬が切れてしまったからだろう。
 そう思い、ベッド脇に置いてあった筈のサイドテーブルを見ないまま、かけ布団から手を伸ばして、テーブルの上にある小さな紙製の袋を取る。
 しかし、紙袋の中身を見ると、そこに入っているPTPシートはどれもこれも空であった。

 途端に頭の痛みが増して、息がもっと苦しくなる。
 こういう時、いつも『かえりたい』と思う。
 でも、どこに『かえりたい』のかと聞かれたら答えられない。

 ぐしゃりと袋を握り潰して、重たい上半身を持ち上げる。
 サイドテーブルにはシンプルな形の水差しが置かれており、 そこにはガラスで出来た小さなグラスもあったので、その水差しを震える手で掴むと、同じように握ったグラスに水を入れようとする。
 バチャリとグラスに入りきらずに零れ落ちた水が手を濡らすのを煩わしく思いながら、ようやく水を一口に含ませると、ほんの僅かだけ頭の熱っぽさが引いたような気がした。
 どうにかテーブルの上にまだ中身の入ったグラスを戻し、一息つく。

 それなのに頭の靄は消えない。それどころかじわりじわりとその侵食度合いを深めていくような気さえする。
 なんなんだ、この不愉快な感覚は。
 ゆるゆると頭を振ってその靄を取り払おうとするが、逆にその気持ちの悪い黒い物体はへばりついたガムのように心身の機能を低下させた。

 「? ……っカ、は、……ひゅ……」

 胃がひっくり返りそうになるのを押さえる為に、逆に深く吸った空気が肺を押し潰して、喉が嫌に音を立てた。
 マズイ、これは、この感覚は知っている。

 「……は、ッ……」

 空気がうまく吸えない。苦しい。
 目尻から滲む涙が視界に膜を張って、白いシーツと着ているシャツの胸元を手で握り込んで身を丸めた。
 こういう時、どうすれば良いのかを聞いていた筈なのに咄嗟に身体が動かなかった。
 ただ堪えるように目を強く瞑るが、視界が暗くなっただけで何も変わりはしない。
 苦しい、苦しい、それでもどうしたら良いのか分からない。

 「クリプト」

 不意に優しい声が右上から降ってくる。
 温かくて大きな掌が背中を撫でさすっていく感覚が薄いシャツ越しに伝わって、乱れた呼吸が少しだけ和らぐが、まだ息苦しさは残っている。
 それでも、そんな中で鼻を擽る甘い香りが低く耳触りの良い声と混ざって、心地よい。

 「……ごめんな」

 うっすら目を開けてその声の方向を見ようとするが、その前に身体を引き上げられて唇を塞がれる。
 厚みのある唇がこちらの呼吸に喘ぐ口に敢えて息を吹き込んで、必要以上に酸素を取り込もうとしていた肉体を宥めた。
 その間にも絶えず背中を擦る掌の温度が伝わって、怯えていた心が少しずつ、収まっていく。
 縋るようにシーツとシャツを握っていた手を両方とも目の前のシャツに移すと、そこを伸びない程度の力で握りしめた。

 やっと落ち着きを取り戻した肺が正常に酸素を体内に取り入れ始めたのを認識して、閉じていた目蓋を開ける。
 ベッドの横にあるカーテンの隙間から覗く光は少ない。まだ深夜帯なのだろう。
 自分が寝ていたのとは反対側のベッド脇に置かれたスタンドライトがいつの間にか灯されており、その小さな明かりだけがそこそこ広い室内を照らし出していた。

 スタンドライトの発する仄かなオレンジ色の光の中で、後ろを刈り上げ、ウェーブがかった長い前髪だけを残した髪型をした、長い睫毛に縁取られたヘーゼルカラーの瞳が特に美しいヒゲ面の屈強な肉体を有した男が俺を複雑な眼差しで見つめてくる。
 俺は再びどうしようもない息苦しさを感じながらも、今、一番に聞かなければならない言葉を発していた。


 「お前は……誰だ?」






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