雨間暁鐘




伏せていた目を開け、遠くの方で揺れている森の影に視線を移す。
もう何度来ているのか分からぬほどのその知った気配に、息を吐く。
何故なら、その影から出てきた子供は何時ものような人を食った笑顔を浮かべているわけではなく、何かを湛えた顔をしていた。
その瞳に、こちらも何故か複雑な心持になる。


「……よお、」

「…………」


「約束通り、今日も来たぞ」


その言葉に黙ったまま答える。
ゆっくりとその歩を進めてくる子供は、月に照らし出され、今にも消えてしまいそうな儚さを醸し出している。
男が男にそんな感想を抱くなぞ、可笑しいとは分かっているが、それ以外にその光景を形容する言葉があるとしたならばそれは『美しい』であって、それよりかはまだマシに思えた。
二三度瞬きをして、再び目に世界を映す。
先ほどより近くにいる子供の淡い髪が風に嬲られ、柔らかく散る。
それは酷く幻想的で、森の中で咲き誇る真夏の桜のようだった。
そして暫く凝っと見詰め合う。
オレは胡坐を掻いた状態、また、奴は立ったままの状態で。


「……今日は、答えてくれないのか?」


ふ、と薄く笑う子供に戸惑う。
答えたくないのではなく、答える言葉が見つからないのだ。
するりと視線をかわされて、それを追うように自然と子供の顔に目がいってしまう。
しかしその顔をよく見る事は叶わない。


「……別に、構わないけどな」

「いや、……」

「…………」

「……七夜」


ガサリ、と不躾な音が周囲から響いてくる。
それは一箇所だけでは無く、此方を囲むように放射線状に散らばっているのが分かった。
お互いにその気配を一瞬で察知し、目配せをする。
それから一拍の間も無く、俺は立ち上がり、七夜はその洋袴から刃物を取り出して構えた。
一体何時から居たのだろう。
いや、居るには居たのだろうが、余りの存在の小ささに気を配る必要が無いと本能で処理していたようだ。
それに、そのような矮小な存在に気を取られていられる程、先ほどの己には余裕というものが無かった。
それほどに、目の前の子供に気を取られていたのだろう。
……しかし、そんな事は無いと今の考えを自分で打ち消す。


「…………軋間」

「…………あぁ」


七夜の声でオレは思考を一旦表層にまで上昇させ、湧き出る殺気を隠すことなく、七夜の背に自らの背をつけた。
これでどの位置から奴らが襲い掛かって来ようと撃墜できる。
こんな風に誰かと背を合わせて共闘した事等など一度も無い。
そのような状況など無かったし、必要も感じなかった。
しかし、今の状況では致し方ない。
いや、こうするしかなかった。
―――何時だって、オレは後ろにいる子供に気遣いをしていたのだから。
自分自身に嘘を重ねても何の意味も無い。
先ほどの虚偽を自分で改正する。
こうして昨日からずっと何度も何度も自分の本心から目を背けていた。
こうも上手く行動と思考が一致しないのは、今まで一度も無かったというのに。


「数は?」

「……百はいかないだろう。一体一体の力も弱い」

「……ふん、雑魚か。……随分と熱狂的なファンをお持ちで」

「大体はお前が連れてきた奴等だろう。……俺はこの森に這入ってくるモノは大抵潰している」

「そうかよ。……ま、何となく付けられてる気はしてたんだ」

「…………」

「そう黙るなって…………此処に来る事だけで頭が一杯だったんだから」


そのような会話を交わしている内に、のそのそと鈍い動きで影から最早人とは呼べぬ異形達が顔を覗かせる。
どんどんと這い出てくるかのようなそれに侮蔑と僅かな同情の視線を浴びせながら、七夜の言葉に答えを返す。


「…………そうか」

「……何時もみたいに、憎まれ口でも叩けばいいのにアンタって奴は……」


「…………」

「…………まぁ良い。……軋間、……アンタは俺以外に殺されたり、少しでも傷つけられたりしたら駄目だ」

「……何を言い出す」

「良いから。……分かったな?絶対だぞ」


後ろに居る七夜が振り返ったのか、その真っ直ぐな視線を背中に感じた。
それに言葉では答えず、微かに頷くことだけで返す。
それを見て、安堵したのか小さな吐息が近くで聞こえ、その後、柔らかな髪が背を擽る感覚を覚えた。
オレはその感覚に刹那、溺れそうになる。
しかしその念を振り切り、完全な戦闘態勢に入った。
空には、その茶番を笑うように微かにたなびく雲と、それに僅かに隠された月だけがあった。



□ □ □



相手もしてくれない男に始めは腹が立った。
俺としては普通に会って、すぐさま斬りあいをして、それで御終い、幕引き。
そんな風に考えていたのに。
何時まで経っても男は上手く俺をあしらって、少しだけ憎まれ口を叩き、そうして俺が横に座る事を許す。
鬱陶しい、と声で、顔で、表すくせに。
何時でもその隣は俺が座れる位に空いていて、俺が座ってしまえば男はただ黙って本の続きを捲った。
俺はそんな男の澄ました顔を時折崩したくなって、ちょっかいを出せば、男はそれをあやす様に片手だけで止める。
それでも止まない時は、男は観念したかのような顔をして、何処かに俺を連れて行ってくれた。
それはこの深い森の中をまるで自身の庭のように思っている男にしか行けないような未開の地であったり、清らかな流れを 湛えた渓流であったり、夜になれば何かが奥に潜んでいそうな洞窟だったり。
それらは、今は無き里の記憶を俺に思い起こさせ、無機質に囲まれた街には無い一種の感動のようなものを覚えさせた。
里の記憶も、本来ならただの創られた記憶にすぎない。
しかし、そうと分かっていても、俺の中にある確かな『何か』にそれらは語りかけてくる。
だからその度に俺は、己の虚像っぷりと、明確な自我を感じるのだ。
――それを、俺をかき消した張本人に思い知らされるのは、癪ではあるのだが。


『軋間』

『…………』

『……なぁ』

『…………』


俺は、本当に戯れに、何の意図も無くただダラダラと男に話しかけていた。
男はそれを百も承知なのか、俺の方を向くことも無く、ひたすらに活字を追っている。
今日は少し空模様が荒れている。
昨日はそこまで天気が悪かったわけではないのだが。
そんな事を考えて、そっと前に伸びをした。
木々に囲まれているこの場所の中心には一本の大木がその根を張り巡らせ、この木の根元は男と俺が待ち合わせ場所のように使っている。
否、元々男がここで瞑想をするのを日課としていて、そこに俺がほぼ毎日やって来ているだけだ。
しかし俺を煩わしがりながらも場所を変えない男の意図が俺には少しだけ分かるような気がしていた。
それは俺なぞに気に入りの場所を退かされてなるまい、という男の矜持と、(ここからは俺の自惚れだが)一寸ばかり俺との会話を楽しんでやっても良いか、という好奇心のせいだろう。
男が俺を森の様々なところに連れ回すのと同様に、俺は街での一種、滑稽ともいえるような慌しくもなかなかに楽しい生活やら、知り合いから伝え聞いた酒の情報などを話す。
それはもうずっとこの森の中で暮らしている男には面白く感じるらしく、俺がそんな話をする時、男はただ黙って聞いているからだ。
人によってはその沈黙を恐ろしく感じたりするのだろうが、俺にとってのその沈黙は謂わば肯定であり、また、男にとっては最大限の畏まった話の聞き方なのだろうと思っている。
要は、男はあまり相槌が得意ではないのだ。


『…………』

『…………』


だが、沈黙にも種類というものがある。
心地よい沈黙があれば、気まずい沈黙もあり、それらは時に人を安心させたり、徒(いたずら)に焦らせたりする。
しかもそれは相手にどのように受け取られるかによって違うから尚更、扱いにくいのだ。
例えば、男にとって心地よい沈黙でも、俺にとっては退屈で仕方ない時間だったり、なんていう事がある。
まぁ、それは正に今この時なのだが。
何時もならもうとっくに俺の妨害に業を煮やした男が俺を何処かに引っ張り出している時間だというのに、今日の書籍は随分と面白いらしく、俺の度重なる邪魔にも屈せず男はひたすらにその頁を捲くり続けている。
正直、つまらない。
俺は男から目線を逸らして、退屈な余り出てきた欠伸をかみ殺す。
昼寝しようにも、今日は少し眠ってからこちらに来てしまったせいか、余り眠たくもないし、こうもどんよりとした天候の中寝こけるのもなんだか気が引けた。
だから再び男の方に目をやる。
気がつけば、男の左手が膝に置かれ、微動だにしていない。
防具なのか、はたまた衣服なのか分からないが、布に包まれた男の手は、其れ越しでもハッキリと分かるほどに武骨で筋張っている。
男の主たる能力は圧壊なのだから、その為に体が構成されていても可笑しくは無い。
いや、もしくはこの体だからこそ、圧壊などという空恐ろしい能力を身に着けたのだろう。
そこら辺は流石鬼の末裔、というべきか。
それにしても――……


(…………なんか、悔しいな)


俺は不意に男の手を裏返して、自分の手と合わせてみる。
そして合わせてみた掌は、というと、一回り……もしかしたら二回りくらいは違う。
身長やら体重やら、その他諸々が違うとしても、男として何か複雑な気分になった。
しかし俺と男では戦闘体系も、流れている血も違うのだから致し方ない。
そう思って、合わせていた手を離そうとした刹那、


『…………!』


きゅう、と強くも、しかしけして弱くも無い力で手を掴まれる。
その思いがけない男の行動に俺はキッ、と男に睨みを利かせるが、男はそんな事など何の関係も無いかのように片手だけで器用に本の頁を進めていた。
しかも掴むだけでは飽き足らず、そのまま俺の指の股に指を滑り込ませ、再び握りなおしてくる。
これではまるで……そう考えた瞬間、自分の顔が熱を持ったのが分かった。
きっと指先もそれに連動して熱くなっているだろう。
落ち着けと必死に自らをいなしても、それは逆に空回り、益々体は熱を持つばかり。
そんなに嫌ならば声を出せば良いのだが、どうにも声を出したら負けのような気がして声も出せない。
だからもう片方の手で男の指を掴んで引き剥がそうと試みる。
だが、先ほど確かめたように男の手は力強く、俺が少々引っ張った所でうんともすんともしないのだった。


(…………わけが分からん……)


暫くそのままの格好でお互いに黙りこくっていたのだが、遂に荒れていた空が泣き出し、少し先の芝に最初の一滴を落とす。
俺はそれに気がついて男の手をつい、と引いて知らせた。
男は俺の言いたい事に気がついたのか、段々と増えていく雫を見て、読んでいた本を閉じ、それを懐に仕舞い込む。
何時も思うのだが、何故男は栞も挟まないで、自分の読み終えている場所が分かるのだろう。
そんな事を考えながら男を見ていると急に男が立ち上がり、俺はそれに引っ張られるように視界が高くなる。
そして男は此方を向き直り、今まで一言も発さなかったものを、急に語りかけてきた。


『……傘は持っているのか』

『……いきなり俺が内ポケットから折りたたみ傘出したら笑うだろうに、よく言うよ』

『…………』

『想像しなくっていい!……てか、アンタはどうなんだよ』


そういうと男は何処から出したのか紅い番傘を脇から取り出した。
きっと今日の天気を見越して持ってきていたのだろうが、男の影に隠れて今まで見えていなかったようだ。
これは俺にとってかなりの注意散漫と言える。


『…………』

『…………用意周到だな……』


『……そうか?』


そう言って男は俺に目配せをした後、繋いでいた手を離し、その傘に手を掛けた。
曇った空と鮮やかな紅の色彩差に思わず目を細めてしまう。
まるで周り全てが枯れ果てても尚、咲き続ける牡丹を思わせるそれは、男の手の中でゆるりと咲き誇る。
思っていた以上に大きかったそれを男は頭上に掲げ、ただその光景を呆っと見ていた俺の肩を抱いてその中に引き込んだ。
別に其処まで密着しなくても濡れないだろうに、男は俺が少しでも濡れるのが許せないと言わんばかりに強く男の方に俺を寄せる。
だから俺の髪は男の肩口に擦れ、寧ろ歩きにくいほどだ。


『……ちょ、……軋間……歩きにくい……』

『少し我慢しろ』

『…………少しって……別に俺は走って帰るし、ちょっとくらい濡れたって……』

『…………送る』

『……は……?』

『風邪をひかれたら適わん』

『……こんな小雨で風邪なんてひくかよ……』

『…………どうせこれから本降りになる。……いいから黙っていろ』


それに反論しようと口を開きかけたが、その前に肩を抱く指が微かに熱いのに気がついてしまって、結局黙るしか出来なかった。
森の中はしとしとと振り続ける雨のせいで若干抜かるんで歩きにくい。
しかし男はそんな状況にも慣れきっているのかどんどんと進んでいってしまう。
対して俺は男と歩調を合わせるのが精一杯で、どうにも悔しい気持ちになった。
なんでこんな事でも俺は対抗心を燃やしているのだろう。
他の奴だったら、そんな事思いもしないくらいに無頓着なのに。
そんな事をつらつらと考えていると、一瞬だけ足を取られそうになってしまって俺はそれに気がつかれないように踏ん張る。
絶対に気がつかれていないと思っていた俺の考えとは違って、俺の肩を抱く男の力が強まって、少し歩く速度が遅まるのが分かった。
どうして、俺はこんなことで、顔を赤らめているのか。
漸く、霞掛かった森の最深部を抜け、街に続く道に出た。
するとここから先は流石に人が通ると思ったのか、男の手が肩から外れる。
それで安堵すると同時に、何処か肩から無くなってしまった温度を引き止めたくなる自分がいて、どうしようもなくなりそうになる。
それに加えて、歩幅は先ほどと変わらずにゆっくりとしたテンポを崩さない男にも腹が立った。
平日の昼間、雨も降っていて、その上この道は元々余り人通りがない為か全くもって人とすれ違わない事だけが救いでもあり、誰かとすれ違う事を望んでしまう自分も居る。
視線が空を漂い落ち着きを無くしてしまいそうで、苦し紛れに電柱をそっと傘の下から見上げてみれば、寒そうに身を寄せた烏が小さく鳴いているだけ。
曇った空は相変わらずで、ぽたぽたとその涙を零し続けている。
……これではまるでこの世に俺と男しかいないかのようだ。
どうかしている。そう思う。
今日の俺は可笑しい。いや、男と一緒に居るときの俺は、何処か可笑しくなってしまう。
誤作動、接触不良、不良品、欠陥品。
どれも当て嵌まる気がする。
大体、その『欠陥』を何処となく面白く思ってしまうその状況こそが、一番可笑しいのだ。


(参ったね。……どうも)


そうして男二人で合いあい傘なんていう傍から見たら不気味な格好のまま、何時もの生活の礎としている路地裏の入り口に漸くたどり着く。
まだご主人様は遠野の屋敷から帰ってきていないのか、ガランとした空間がそこには広がっていたが、ビルが雨風を遮ってくれているお陰で、何処も濡れてはいなかった。
男はもう傘を差す必要性と、スペースが無い事に気がつきそっと傘を畳む。
俺はもっと中に入るように指示したが、男はすぐに帰るから、とその場に立ち竦んで動かないまま。
何故か住居で言えば玄関付近で何も言わずに見詰め合う。
ぽたぽたと傘の先から雫が落ちる音が辺りに響いて、妙に気まずい。


『七夜』

『…………なんだよ』


そろりと戸惑うように頬に触れた手を払うことなく、男の問いかけに答える。
何故、とか、どうして、とか聞くべきだろうに、まるでそれが当然かのように男の手が俺の髪を弄り、そうしてそっと抱き寄せられた。
……傘なんて放り出してしまえばいいのに。
律儀にもう片方の手で持った傘を俺から遠ざけている男を見て、そう思った。


『…………』


何か別に考えている事が伝わったのか、男が俺の髪を痛まない程度に引っ張ってきたので、再び俺の思考は男に向く。
それに満足したのか影によって暗くなっている男が微かに笑ったような気がした。
そしてそのまま寄せられる顔に、俺は一瞬だけ逡巡したが、それは本当に一瞬だけで、俺は男に身を任せる。
軽く触れるだけの接吻とも呼べぬような他愛も無いもの。
だがそれだけで、カッ、と胸が熱くなる。
例えるならば心を火にくべてしまったかのような。
それは男も同様だったのか、すぐに俺の頭を支えていた手を離して、反対側に向いてしまった。
何かを期待していたわけでは無いのだが、その反応にこちらもどうして良いのか分からなくなって、もう見慣れている薄汚れた壁に視線を移す。


『…………明日』

『……明日?』


しかし男が急に声を発したのでそれに引き寄せられるように視線が男の背に戻り、口が勝手に続きを促す。


『晴れていたら、来い』

『…………晴れてなきゃ、行っちゃいけないのか』

『……雨だったら、俺が迎えに来る』

『…………』

『…………嫌か』

『…………傘は』

『……傘……?』

『……傘は持たなくて良いんだろ』

『…………あぁ』


男は見えないが薄く笑って、そう答える。
そうして俺を一瞥もする事無く傘を開いて、外へと出て行ってしまった。
一人残された俺は、漸く今の状況に気がついて、壁に背を着け、男が行ってしまった方向をひたすらに見つめ続ける。
遠くなっても分かるその艶やかな紅は、もう本降りになってしまった雨の中で、その存在を一心に此方に伝えてきて、尚且つその姿を俺に刻み付けていく。
―――始めは何を考えているのか分からない男に腹が立った。
大よそ理解出来ぬその行動に、俺は何時だって振り回されてばかりで、いっそ襲い掛かって首を掻き切ってしまおうかと何度も思った。
しかしそれは出来ずに、俺は男に振り回されるのを是として、その上それを楽しんでさえいた。
一日が経つ度に、男が俺の死の象徴から外れていく。
一分が経つ度に、男が俺の仇だと思えなくなる。
一秒が経つ度に、男が俺の心を占めていく割合が増えてしまう。
その一つ一つは拒否しようと思えば何時だって出来た筈で、無視しようとすれば、何処までだって可能だった。
自分の心を押さえつける方法など、知り尽くしている。
だが、殺人衝動の具現化である筈の俺が、手を伸ばしてしまう程にそれらは甘美で、脆かったのだ。
簡単に打ち崩せるそれを、俺は守り続けて、育て続けた。
可笑しいと嘲笑う自分を知りながら、それでも尚、俺はそれを手放せなくて。


(…………熱い)


気がつけば、唇に手の甲を押し当て、残っている筈の無い温もりを感じている。
疾うに男の影も形も無い道を俺はまだ目で追っていて、そこに無い紅い軌跡を脳内で描く。
何処までも馬鹿馬鹿しくて、無様だと思うのに、それを否定出来ない自分が居るのだ。
俺はゆるゆると其処に座り込む。
路地裏の地面は相も変わらず冷たく、今日は一層湿った空気と混ざって、寒い。
だがそこに存在している俺はそんな寒さなどお構いなしに熱くて、それがまた思考を混乱させてくる。


(…………)


暫しその格好で居ると、風が強くなったせいか雨が吹き込み、俺の体の側面を僅かに湿らせている事に気がついた。
これでは折角の男の心使いも意味を成さない。
俺はそう思い、自然と体を奥の方へとずらしていた。
そして体をずらし終わって、自分の取った行動が余りにも可笑しくなって、目を伏せた後、口端だけで軽く笑った。



□ □ □



一人傘を差して、今来た道を戻る。
自分でも何故あのような事をしたのかよく分からない。
正直に言うならば、あの瞬間の記憶すら曖昧模糊で、実は夢だったのでは無いのかと自分を疑ってしまいそうになる。
しかし唇に残る感覚は未だそこだけ鮮明で、頭の中にこびり付いている七夜の灰色の瞳が白い空間にぼんやりと浮かび上がって。
――――何故俺はこんなに焦れているのか。
背中ではためく自分の上着を少しだけ煩わしく思いながら、先ほどより早足で無人の街を抜ける。
誰にも会いたくないと思う自身と、誰か居ないのかと探す自分がいて、尚更混乱してしまう。
先ほどまではあれほど、『誰も来なければ良い』と思っていたというのに。
なんて子供じみた考えだろう。
こんな風に思ってしまうなぞ、今まで無かったというのに、こんな感情が俺の中にある事にまず驚く。
何処までも一本道で、しかしその先には誰も居ない道を見ながら思う。
肩に触れていた手が、今でも熱を持っている。
だが自分の半身は酷く冷えていて、その落差に笑いすら起きてしまいそうだ。


(…………明日も雨が降りそうだな)


森の入り口に着いて、そっと後ろを振り返り空を見上げる。
相も変わらず上空に広がる空は鈍色で、それはちょっとやそっとの事では動かないように見えた。
その証拠に先ほどより雨が酷くなってきている。
奴はちゃんと暖かくして眠るだろうか。
風邪だけは引いてほしくなかった。
しかし、雨は止まないままでいて欲しいと願う自分も居て、その矛盾に苦笑する。
どちらにしたって、俺はきっと逢いたいのだ。
だから、約束を取り付けておいて良かったと思う。
…………あれが約束になっているのかは分からないが。
だがそこまで考えて、俺はふと考え直す。
何故俺はこんな気持ちになるのだろうか。
この感情は何だ。
今まで熱病に冒されていたような気持ちが緩やかに醒めていく。
俺は、何故こんなにも奴を気にかけるのか。
あまつさえ、口付けまでして。
分からない。
迷っている、―――己の心が理解しきれない。


(…………)


そうして誰も居ない街から目を背け、影を落とした森に再び向き直る。
逢いたいと願って自分から仕掛けた癖に、きっと次に逢ったら何を言ったら良いのか分からない。
そんな自らが許せないまま、俺はぬかるむ森に脚を踏み入れた。
分からない、と思いながらも俺と同様に混乱している七夜を夢想しながら。



□ □ □



「…………これで終いか」


残りの一体と思われる物体にナイフを突き刺し、そうして引き抜く。
すると面白いくらいに血を流してそれは倒れ、そのままピクリとも動かなくなる。
そうして刃物をズボンのポケットに仕舞い込み、男の方に近づく。
男も血まみれだったが、息一つ乱していない所を見るに俺よりもやはり優れている事を嫌が応にも思い知らされてしまう。
まぁ、俺も息を乱すほどでは無かったのだが。
寧ろ、昨日の男の隣に居たときの方が余程、心臓に悪かった。
しかし今日の男は何処か可笑しい。
昨日はあんな風だったのに、今日は俺の方が男に迫っているかのように感じる。
もしかして昨日の出来事は男にとってはほんの気まぐれで、本気にしてしまった俺はただの道化なのかもしれない。
そう思って、少し苛立ちと同時に悲しみのようなものが身を包んでいく。
確かに言葉にされた訳でも、俺自身この感情が正しいものなのかさえ、確信が持てていない。
それでも男がああして行動に出たことで、俺のこの感情も正当化されたかのような気がしていたのに。
何を言えばいいのだろう。
俺は急に何も言えなくなって、俯いてしまう。
遠い距離にいるわけでは無いのに、何処までも男が遠くにいるように感ぜられた。
……そんな事を考えていたのが災いしたのだろう。
後ろから発せられた微弱な殺気に数拍反応が遅れた。
振り向けば先ほど倒したと思った奴が最後の力を振り絞って、こちらに襲い掛かってきている。
それは酷くスローモーションに見え、脳内では自分が受けるダメージを考えていた。
つまりはもう俺の反応速度外で、一撃受けるのは確定していたのだ。
しかし、


「…………!?」

「無間に、堕ちろ………!!」


いきなり後ろに引かれ、目の前で俺に襲い掛かってきた奴が灰になるまで燃え尽きるのを見ていた。
その熱気は男の手を伝い、じりじりと此方を焼き切りそうになる。
だがそれも一瞬で、桁外れの熱で犯された敵は、そのまま男の手の中で更に追い討ちをかけるようにぐしゃりと拉げた。
そうして男はその手に持ったモノを忌々しげに投げ捨てる。
そんな男の感情を表出させた行動を見るのは初めてで、背筋が寒くなると同時に、俺を抱き寄せている場所に丁度ある心臓が痛いほど音を立てているのが分かってしまって どうしようもない気持ちになってしまう。
俺はチラリと男を見上げた。
すると男は射る様な視線で此方を見抜いた後、強い力で此方を抱きしめてくる。
それは痛いくらいで、何か苦言を呈そうかとも思ったが、何を言えば良いのかも分からない。
だから俺は小さな声で男に礼を告げた。


「……すまない……助かった……」

「…………」

「…………」

「…………」

「……軋間……?……おい……」

「……好きだ」

「……は……」

「好きだ」


頭に手を差し入れられ、髪を除けられてから耳に流し込むように低音で囁かれる。
余りの事に一度では理解し切れなかった俺に教え込むように紡がれる言葉は甘く、ぞくぞくと体の先まで響く。
先ほどまで自分の感情すら分かっていなかったような顔をしていた癖に、こんなの、ずるい。
そうひたすらに思った。
けれど、もしも俺が男と逆の立場だったなら、同じような行動をしていたような気がして、何も言えなくなる。
そうして俺が何も言わない事に気がついたのか、急に男の手が俺の頬から顎に滑り、そこを持ち上げてくる。
それに逆らってやろうかとも思ったが、今更な気がしてそのまま少し目を伏せたまま男の手のままに顔を持ち上げた。
男の目は先刻の鋭さを微塵も感じさせない視線で、此方を見遣ってくる。
それが妙に気恥ずかしくて、顔を反らそうとするがそれは許されず、渋々男と目を合わせた。
昨日は勢いがあったし、言葉も無かったものだからまだ、耐えることが出来たが、今は違う。
自分でも分かるくらいに顔が上気しているのが分かる。
きっと耳まで赤くなってしまっている事だろう。
今が暗闇の中で本当に良かったとも思うが、ここまで近い距離では何の意味も無い。
その上、今日は昨日の雨が嘘のように空には雲が無く、天高く昇った月が辺りを照らし出しているので、そこらの 外灯よりも余程周りが良く見える。
本当はもっと早い時刻に来ようと思っていたのだが、俺の思考とは裏腹に晴れてしまった空を見ていたらあっという間に 時が経ってしまっていたのだ。
その点に関しては、あんな約束を取り付けた男を恨む。
どうせなら、晴れていても俺を迎えに来てくれていたら良かったのだ。
そうしたら、……そこまで考えて、唇に触れる感覚に意識を全て持っていかれた。
掠めるだけでは無い、今度はもっと長く奪われる。
別に言われた訳では無いのに、自然と瞼はその視界を遮って、その感覚だけを追う。
手が頭を掻き混ぜるのも、俺が男の服に縋るのも何もかもが直接脳に響いて、可笑しくなりそうだ。


「…………ッ……」

「…………七夜」


かなり長い間ただ唇を重ねて、そこからゆっくりと離れる。
別に激しい接吻にした訳ではない、それだというのに息が上がってしまった。
その上、優しげな色を含んだ男の声が、俺の名を呼ぶ。
それに耐えられなくて、俺は男の服を掴む力を強めてしまう。
男が言いたい事等分かっている。
分かっている、けれども。


「…………行動だけじゃ、駄目なのか」

「…………オレも、言葉が欲しい」

「……でも……」

「……正直、不安だ。…………だがそれより、お前が流されただけならもっと、怖い」

「そんなこと、ない」

「…………だから、言葉が欲しい……後戻り出来ないと分かっているだろう」

「…………アンタ、ほんとに……急すぎて吃驚する……」


「……それはオレ自身驚いている……が、……謝る気は無いぞ」

「良いよ。…………そんなアンタが欲しい……から……」


片手で髪を掻き揚げながらそう答えてみせる。
俺としてはサラッと端的に答えて見せたつもりだったが、声が震えていて格好もつかない。
そんな自分が恥ずかしくて、今すぐそこから逃げ出してしまいたくなった。
しかしそれは服から手を少し離しただけなのに、男が俺を引き止めてきた事からも不可能な事が分かる。
もうどうにでもなれば良い。
再び強く引き寄せられて、男の呼吸を近くで感じながらひたすらにそう思った。



-FIN-








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