ざわざわと風に揺らされた木々が微かな音を立てる。
そうして目を閉じていても温かな日光がこの身体に当たっているのが肌で感じられた。
日課となっている巨木の下で行うこの座禅は、例えただの真似事だとしても、もはや行わなければ落ち着かない。
それに精神を何処までも無にし、心を波の起たない湖面のように整えていく作業は一時の間だけでも様々な柵を忘れさせてくれる。
しかしそんな時間を邪魔するかのように何者かの気配が此方に向かってくるのが分かった。
だがその気配には殺気が込められておらず、オレは其れを意識の片隅で覚えつつも目を開ける事はしないまま座禅を続ける。
暫くするとガサガサと少し離れた場所の草叢が動く音が聞こえ、その何者かが漸く此方の姿を見つけたらしくその足を止めたのが分かった。
流石にその状態で無防備のまま居るわけにもいかないと目を開けると、其処には思いも寄らぬ人物が此方を凝視しているのが見える。


「…………貴様は、七夜黄理の息子か」


青い学生服を着た餓鬼と互いに確りと対峙した事は無かったが、名乗られずともオレには何者なのか分かった。
そんなオレの言葉にハッとした顔になった餓鬼はすぐさまその口元に皮肉げな笑みを浮かべながら答えを返してくる。


「ああ、そうだよ。紅赤朱」

「……」

「まさか本当にこんな所に居るとはなぁ……あの情報は確かだったらしい」


くすくすと笑いながらそう囁く餓鬼は、何処かその瞳に不思議な色を宿しながら一人呟く。
そんな餓鬼の姿をオレは変わらずに巨木の下に座り込んだまま睨みつけるように注意深く観察する。
先ほどからどうにも不可思議な感覚を覚えているのは恐らく餓鬼から発せられる筈の殺気が飛んでこないからだろう。
そんな思考を黙り込みながらしているオレとは正反対に餓鬼は更に言葉を紡ぐ。


「ホント、此処まで来るのだって大変だったんだぜ?並の人間じゃ、途中で遭難して御陀仏だよ」

「……」

「……なんだよ、自分の聞きたい事だけ聞いて後はだんまりか?其れは幾ら何でも失礼だろう」

「……目的は何だ、親父の敵討ちか」


苛立ったようにそう言う餓鬼の台詞を無視してそう囁くと、餓鬼は舌打ちをしてから肩を竦め此方にゆっくりと近づいてくる。
草叢が餓鬼の靴によって踏まれるのを見ながらも油断はせずに餓鬼を見詰めているとオレの少し手前で立ち止まった餓鬼はその両手を広げ、其処に何も無い事を見せてくる。


「確かにそのつもりだったんだけど、気が変わった」

「……何……?」


その言葉の意味が理解できず、餓鬼を見上げる。
餓鬼の色素の薄い瞳が此方を怯える事無く見返してくるのを感じながら、見詰め合っていると不意に風が吹き、互いの髪を揺らす。
其れを嫌うように手で髪を押さえた餓鬼の口元は何処か愉しげに歪んでいる。
―――この餓鬼は何か良からぬ事でも考えているのかもしれない、とそんな思いがふと頭の中を過ぎっていった。
しかし風が止み、再び静けさを取り戻した頃にはもうその歪んだ笑みは浮かんではおらず、退屈そうに辺りを見回した餓鬼が感慨深そうに囁いた。


「しっかし、本当にこんな所に住んでるのか?家の類が見当たらないんだが」

「……此処には無い」

「ああそうか、それもそうだよな……もしかして、……洞窟に住んでいるとかじゃないだろうな」


冗談っぽくそう言った餓鬼にオレは答える言葉が見つからず、黙り込むしか出来ない。
一体どうしてこの餓鬼が此処までオレに友好的に話しかけてくるのかその理由も分からなかった。
他者とこのように極々普通の話をする事自体、稀である上に、オレを敵として認識しているであろう餓鬼にどのような対応をするのが正解なのか。
侵入者なのだからさっさと追い返せば良いと思う己と、あの『七夜黄理の息子』がどのような思考でもってこのような言動をしているのかが気になる己との 狭間で揺らいでいると餓鬼が更に此方に一歩近づきながら言葉を紡ぐ。


「なぁ、聞いてるのかよ、紅赤朱」

「……聞いている」

「んで?どうなんだよ、洞窟暮らしとかしてるのか?」

「いや……洞窟暮らしはしていない」

「なぁーんだ、もしそうだったら面白かったのに」


まるで冒険譚を聞く前の子供のような瞳をした餓鬼にオレは思わず戸惑いながらも答えると、心底落胆したようにため息を吐いた餓鬼に感じなくても良い罪悪感 を感じてしまう。
オレはこのまま振り回されてはならないと、何処か柔らかくなってしまった空気を引き締めるように低く呟いた。


「……一体何のつもりだ……七夜黄理の息子、喧嘩を売りにきたのなら買うぞ」

「だから其れは気が変わったって言ったろ?……そして俺は七夜志貴って言う名があるんだ。その『七夜黄理の息子』って呼び方は止めてくれ」

「……」


『七夜志貴』と覚えるつもりも無いのに勝手にその名が頭の中に刻み込まれてしまう。
そんなオレの反応に満足したのか、餓鬼は更に言葉を重ねた。


「覚えたか?紅赤朱」

「……」

「別に呼ぶ呼ばないはアンタの勝手だけど、『七夜黄理の息子』って呼ぶよりは簡単で良いと思うぜ」

「……」

「ところで、アンタは何時もこのくらいの時間に此処に居るのか?」


黙り込んでいるオレを無視して勝手な事を餓鬼が呟く。
確かに『七夜黄理の息子』と呼ぶよりかは、『七夜志貴』と呼んだ方が早いだろう。
だが餓鬼の言葉に素直に従うというのも癪に思えてオレは何も答えないまま視線をそっと逸らした。
しかし最後に発せられた言葉に疑問を持ったオレが問うような視線を再び餓鬼に向けると餓鬼は笑みを浮かべながら此方を窺っている。


「其れを答えた所でどうなるというんだ」

「その言い方だと何時も来てるっぽいな。……なら、明日もこの位の時間に来るよ」

「……は……?」

「今日は半信半疑だったから何も持ってこなかったけど、明日はちゃんと手土産の一つでも用意してくるからさ」

「……」

「場所も大体分かったし、明日はもっとすんなりと来られそうだ。……とりあえず今日はもう疲れたから帰る」


何を言われているのか一瞬理解が追いつかず、少ししてから漸くその意味が分かった。
しかし言葉の意味を理解出来たとしても、その言動の意図はまるで分からない。
今まで生きてきた中で無いと言えるくらいに混乱しているオレを尻目に餓鬼はその身体をくるりと反転させたかと思うと、片手を上げながら歩き始めてしまう。


「……それじゃあ、明日の土産楽しみにしてろよな」


そう言ってあっという間に草叢を踏みしめ、出てきた所と同じ場所を潜り見えなくなってしまった餓鬼の背中を何も言えないまま見送ってしまったオレは思わず一人ため息を吐いた。
もしかしたら此れは白昼夢かもしれないと思いながらも先ほど餓鬼と交わした会話や表情一つ一つを鮮明に思い出せる。
しかも餓鬼の空言かもしれないが明日も来る等と言っていた。


(……なんなんだ、あの餓鬼は……)


オレは一人取り残され、どうしたものかと考えるが、考えても仕方が無いと餓鬼が来るまで行っていた座禅の続きを行おうと目を伏せる。
だが、まるで上手く集中出来ない上に、雑念ばかりが表層に浮かび上がってきてしまって意味を成さない。
オレは結局何時もよりもかなり早く座禅を切り上げ、庵へと戻る為に立ち上がる。
そうして、まさか本当に明日も餓鬼が来る筈が無いだろう、とそんな事を考えながら庵へと戻る道を歩み始めた。



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