還らずの雪、忘れずの丘。
真夏の夜の悪夢は再び繰り返される。



残雪のり処



闇の中、俺の意識だけが漂っている。
この何も無い空間に居続けて一体どれほどになるのか検討もつかない。
それはそもそもこの世界に「時間」という概念が存在しないのだから、 正確な時間など分かりはしないのだが。
あの夏の喧騒の中、呼び出され、そうしてあの男に殺された俺はそのまま この空間に落とされた。
だが、その事に対して俺は男を恨んだりはしていない。
しかし幾つかの後悔はしていた。
それは自身の力がまるで及ばなかった事や、さして長い時間男と戦いが 出来なかった事だ。
けれどそれを思えども、全ては終わった事で、俺はこれからもずっとこの 溶けた闇の一部として存在し続けるのだろう。
どうせなら始めから何も知らない闇のままで居たかったのに、一度形を与えられた モノはもうけして消える事は無い。
果たしてそれが幸福かと言えば、嘘になるだろう。
ただ、これが俺に下された罰ならば謹んで受けるしか無い。
モノを殺すことに対して何の感慨も抱かないが、そこに生じる世界の理は仕方の 無い事だと分かっているのだから。


『……や……』


もう一体何度その結論にたどり着いたか分からない思考の波に揉まれていると、 不意に何かに呼ばれたような気がして意識が浮上する。
耳を澄ませようとするが、今の俺はただの概念の塊に過ぎない事を思い出して、 内心自嘲してしまう。
……この暗闇に誰かの声が響くなど、もう二度とない。
きっと深く考えすぎた所為であの時の記憶が呼び覚まされたのだろう。
俺はそう考え直し、意識を閉じようとする。
だがそれを遮るように再び声が周囲に響いた。


『……七夜……』


か細くも聞こえるその声音は、可愛らしい少女のもので俺は閉じそうになった意識を もう一度その声へと向ける。
俺のその変化に呼応するかのように少女の声が大きくなり、俺に指示を与えてきた。


『七夜、……聞こえている?』

(……聞こえている)


俺はその問いかけに答える術を持たなかったが、意識の中で、そう答えて見せた。
すると少女は俺の心を読んだのか、微かに笑いを含んだ声音で呟く。


『……貴方はもう、闇じゃないのよ。……身体を持てる筈』

(……)

『思い出して、……貴方が前に現れたのと同じように、あの時の姿を思い返すの』

(…………あの時)


その少女の声に導かれるように俺は自身の形を思い出す。
始めに足を、そうして手や胴体、最後に顔を。
そうして想像し終わった時には闇の中から生み出されるように俺の形が成されていた。
このように闇から離れたのは久方ぶりの事で、俺は思わず己の手を見つめてみる。
しっかりと五本の指が滑らかに動き、それらは順当な経路を辿って脳へと認識されていく。
目を開けても閉じても周囲が暗闇なのは変わらないが、そうやって閉じる事の出来る瞼が ある事が何よりも大切な事だと思った。


『形は作れたみたいね』

「あぁ……随分と久しぶりな感覚だ」

『まぁ、貴方が眠っている間は結構長かったから』

「そうかい?まぁそうだろうな……外の時間なんて此処じゃ関係ないがそれでも長く感じたよ」

『……それは自業自得でしょう?』

「何も言うまいさ。……何より『君』が俺を再び呼ぶとは思わなかった」

『何とでも言いなさいよ……単純にタタリから独立出来たから、その上でマスターが必要になっただけよ』

「今の俺じゃあ、マスターというよりは飼い犬にしかならないとおもうが?」

『……なら、私を守る天狼の役割を果たして頂戴』

「……さてねぇ……それは善処する。としか答えようが無いな」

『貴方のその言葉は全ッ然信用に値しないのよ……』


そう答えた少女の声は呆れを含んでいたが、それも当然だろうと思う。
以前の俺は少女に黙ってあの男の元へ行き、挙句の果てに野垂れ死んだのだから。
だからこそ、俺はもう二度と誰からも呼ばれる事は無いのだと思っていたのだが、それは計算違いだったらしい。
そんな事を考えていると、遠くの方で光が見えた。
この世界には普通、射し込む筈の無い真っ白な光。


『ほら、……早く出てらっしゃい』

「……あぁ」


俺はその声に急き立てられるようにしながら、その光に向かって歩みを進める。
段々と大きくなるその光に包まれるようになった時、俺は自身の身体が再び現世に存在するのを許された事に、確かに嬉しさを感じていた。



□ □ □



「……」

「……やっと目が覚めた?」


瞼を開けると、俺を覗き込んでいる白い主人の赤い瞳が目に入ってきた。
そうしてその主人の後ろには灰色の空が広がっている。
のそりと上体を起こすと、俺は自身があの広々とした雪原の世界に帰ってきた事を理解した。
雪原についた手が冷たいという感覚を覚えて、妙に可笑しい。


「何を呆けているのよ」

「いや?……随分と久しい感覚だと思ってさ」

「……まぁ、もう一年だから」

「……?」


俺がその主人の言葉に首を傾げると、主人は肩を竦めてから言葉を紡いだ。


「あの夏の夜から丁度一年なのよ」

「……」

「全く、貴方が居ない間色々とあったんだから!」

「……そうか」


あの殺し合いから一年。道理で長い筈だ。
俺は雪原に着いていた手を離し、目の前に翳して見る。
この手ではまるであの男に追いつけなかった。
恐らくあの男は俺を覚えても居ないのだろう。
覚えていたとしても、段々とそれは希薄化していく。
それは至極当然の事だ。
ただ、俺にとっては最後の出来事があの男だったものだから、どうしたって思い返してばかりいた。
―――馬鹿馬鹿しい。
俺は頭を一度掻いてから冷たい雪原より立ち上がった。
どうやら足もきちんと機能しているようだ。


「七夜、……聞いてる?」

「ん?……あぁ、聞いているさ、ご主人様」

「もう……それで、彼女達に今度紹介するから」

「……?」

「聞いてなかったんじゃない!……シオンとさつきとリーズよ。……貴方が居ない間にお世話になったの」

「俺が会っても仕方ないんじゃないか」

「ダメよ。もう紹介するって約束しちゃったんだもの」

「……まぁ好きにしてくれ」

「本当に適当なんだから……」


腕を組みながらそう言った主人は目を瞑って怒っている素振りをしていたが、暫く経つと組んでいた腕を外し、両手をポンと打った。


「まぁ良いわ、分かりきっている事だもの。……それより」

「?」

「久々にお茶でもしましょ。……取って置きの紅茶とお菓子を仕入れたのよ」


そういって雪原に混ざり合ってしまいそうな程の白い服を翻して俺から少し離れた主人は、その指を一度パチン、と鳴らした。
すると途端に真っ白で華奢な造詣をした机と二脚の椅子が出てきて、その机の上には何時もの白地に金の薔薇模様の入ったティーセット一式と、色取り取りの茶菓子が並んでいる。
俺は近くにあった椅子を引いてさっさと座ろうかとも思ったが、此方に向けられた視線に気がついて、先に主人の方に回り、その椅子を引いて座らせてやった。
優雅に椅子に座った主人を見届けてから、自分も席に着くと、片目を閉じた主人がくすりと笑って囁く。


「ちゃんと覚えているものじゃない」

「勿論ですとも、お嬢様」

「……本当に大事な事はすぐに忘れてしまうみたいだけどね」

「何の事だか分からないな」

「はいはい、……どうせそう言うのは分かっていたわよ」


主人は諦めたようにため息をついた後、ティーカップに入った琥珀色の液体にミルクと砂糖を混ぜ入れてから啜った。
俺もそれに習って同じようにミルクと砂糖を混ぜいれた紅茶を一口啜る。
温かなその液体が喉元を過ぎる感覚が久方過ぎて、噎せてしまいそうになるが、それよりも前にスコーンにクリームと苺のジャムを 塗りながら声を掛けてきた主人に意識が向かったので平気だった。


「ねぇ、七夜?」

「……なんだい、ご主人様」

「貴方、……もうあの人の所へ行かないわよね?」

「……」

「……」


主人のいう『あの人』が誰を示しているかなど明白だった。
誰よりも強い力を持った、赤い男。
死した際に掛けられた言葉を俺は忘れる事が出来なかった。
だがしかし、もう過去の事だ。
あの瞬間に全てが終わっているのだから今更あの男の所へ行った所で 何にもならないのは分かっている。
俺はその一瞬の逡巡を押さえ込み、主人に向かって笑いながら答えて見せた。


「もう終わった事だ、……アイツとは決着がついてる」

「……」

「どうした?」

「……なんでも無いわ。……それより折角のお菓子なんだから貴方も食べなさい」

「俺は和菓子の方が好みなんだが……」

「今度はちゃんと用意しておくわよ!」


主人はそう言ってからクリームと苺ジャムの乗ったスコーンをさも美味そうに頬張る。
なので俺は近くにあった小さなクッキーを指先で摘まんで食べてみると思っていたよりも 美味しく感じて、知らぬ間に指が進んでいた。
その様子をみていた主人が此方に向かって淡く微笑むものだから、俺は何とも言えない気分になって、 自身の口元を指差し、主人に向かって囁いてやる。


「ジャムがついてるぞ」

「えッ?どこ?」

「……ッく……」

「!……騙したわね……!」


途端に慌てふためいた主人の様子が可笑しくて、つい笑ってしまうと、顔を真っ赤にした主人が 此方に睨みつけてくる。
だが何時もなら暫し怒っているであろうその冗談にもすぐに機嫌を直したらしい主人に些か驚いていると、 主人が柔らかく微笑んで言葉を紡いだ。


「でも本当に……良かった」

「……レン……」

「……ま、まぁでも私の為だからね!貴方の為じゃないんだから……!」

「……」


顔を背けた主人がその目に雫を浮かべているのが見えて、俺は何処か複雑な気持ちになる。
俺の本質は、どうやっても変えられないのだ。
それでも俺を呼び出した主人はきっと誰よりも強く俺を思ってくれている。
何故なら俺を呼び戻すのだってそう容易く出来る事では無い。
きっとその大変な間、ずっと俺を忘れる事は無かったのだろう。
……だったら、あの男はどうなのだろう。
そんな不意に浮かんできた思いを振り切るように一度頭を振る。
あの時、壊された俺はきっと何処か可笑しくなってしまったのだ。そうに違いない。
俺は俺の存在理由を再び全うするまで、この温かく優しい夢の中でまどろんでいるのが一番なのだ。
そうすればきっと、何もかも全て、元に戻るだろう。
そう思いながら俺は未だ言い訳を並べている主人の声に耳を傾けつつ、ぎこちなく笑った。



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