片手に持った紙袋ががさがさと歩むたびに音を立てる。
その音を聞きながら、何時ものようにあの路地裏のところに行くと男が立っていた。
そうして男は優しそうに笑ってから、その顔を僅かに傾ける。
俺はそんな男の反応に少し笑いを含みつつ、片手を上げて男に挨拶を しながら近寄っていく。


「……七夜」

「約束したからな」


くすくすと笑って紙袋を手渡すとその中身を 確認した男が驚いたように俺の名を呼んだ。
その紙袋の中身は昨日約束した酒が入っていた。
流石に杯を用意するのは出来なかったので、紙コップを買っては みたが酒の味は変わらないのだから及第点として貰おう。
男は俺の顔をじっくりと見遣ってから、小さく呟く。


「……何か、……いや、……有難う」

「?……さぁ、行こうぜ」


何か言いよどんでいるような雰囲気を出した男は、言うのを諦めた のかゆるりと頭を振ってから、薄く笑う。
俺はそんな男の反応に微かな焦りを感じつつ、男と共に屋上へと 向かった。



□ □ □



片手に紙コップを持ちながら隣に居る男を見遣る。
風に吹かれた男の髪は柔らかく靡いていた。
こうやってこの屋上で男と逢瀬を重ね初めてから、もうかなりの時が経っている。
もう俺はそれが当然の事のようにすら感じていた。
特に何か話をする訳ではない。
けれど共に居るだけで安堵すら感じる。そんな空間。


「……なぁ」

「……ん?」

「アンタは俺と一緒に居て、どう思う」

「……」


俺は不意に隣に居る男に声を掛ける。
男はそんな俺の方に顔を向け、僅かに困ったような顔をした。
こうやって男と逢瀬を重ねていて分かったのは、男は俺が思っていた以上に 感情豊かだという事だ。
男は暫し黙ったまま考え込んでいたが、小さく囁いた。


「……面白く思う」

「……それってどういう事だよ」

「……」


そう言ってから、ふ、と優しく男が笑うものだから俺は思わずその顔から 視線を逸らす。
面白い、か。内心その言葉を反芻する。
確かに俺も男と居ると面白く感じるのは事実だ。
それは男の知らない一面を見ることが出来るし、俺自身もそれを楽しんでいる。
でも、それは俺が持ち得て良い感情ではない。
当然の如く受けいれてしまっていたが、本当は違う。
俺は重ねて今までずっと聞くことの出来ていなかった質問を男に投げ掛けていた。


「……あのさ……」

「ん?」


男はその手に俺と同じように紙コップを持ち、それを傾けながら俺の 言葉にそう答えた。
この質問をしたらきっと、俺は男と会う為に自分の中で取り繕っていた理由を無くしてしまう事になる。
それでも俺は全てを終わらせる前に其れを聞いてしまいたかった。
俺は紙コップの中にある酒を全て飲み干し、それをくしゃりと握りつぶす。


「……俺が消えたあの夜」

「……」

「最期にアンタは何て言ったんだ?……俺、あの時は意識がなくなってて良く分からなかったんだ」

「……嗚呼……」


男は珍しく気まずそうな顔をしてから黙り込んでしまう。
そんなに言いにくい事を言っていたのだろうか。
俺が黙って男の言葉を待っていると男は酒を再び含みつつ、訥々と話し始めた。


「あの夜……か」

「……まさか忘れたなんて言わないよな?」

「当然だろう。……ただ……」

「……ただ?」

「……もう少し経ってからで構わないか」

「え?」


真っ直ぐ此方を見つめてきた男がそう言うものだから俺は微かな寂しさを 感じつつ、笑ってそれに返す。


「……そうか、……じゃあ、何時か教えてくれよ」

「……」

「……どうした?」

「……七夜、……どうしたんだ?」

「……は」


男は手を伸ばしてきて労わる様に俺の腕に触れる。
衣服の上からでも分かってしまいそうな気がするその熱い手に動揺 を隠せそうになくて、思わず触れられていない方の手でその手をそっと外す。
そんな俺の行動に男はその動きを止めて此方を凝視してくるものだから つい顔を逸らして囁いていた。


「……悪い……」

「……」

「なんでもないから、気にするな」


まだ俺の感情を探っているのかこちらを見ている男に俺は精一杯の 笑みを浮かべてみせる。
そうして男に向かって呟いた。


「本当になんでもないから気にするな、……な?」

「……お前がそう言うならば……」

「……」

「……」


お互い黙り込んでしまう。
俺はさらに気まずくなるであろう事を言わなくてはいけないのを思い出し、 一瞬躊躇してしまうが、言葉を紡いだ。


「そうだ、……明日から少し用事があるから、……」

「……会えないという事か」

「……悪いな」

「……いや……」


そう言った途端に男が本当に寂しそうな顔を見せるものだから罪悪感が 芽生えてしまう。
……でもこれはきっと今まで山奥に居て会話をするような相手がいなかったらしい男 が『友人』のようなモノに対して感じる感情なのだろう。
しかし次に男が呟いた台詞にビクリと身体が震えてしまう。


「……次は何時会える……?」


その声音には此方を窺ってくる臆病な獣の色を感じた。
この男はこんな感情をどうして俺に向けてくるのだろう。
そんな風にされてしまったら、どうしたって勘違いしてしまうでは無いか。


「……あぁ……そうだな、……なるべく早めに用事は済ませるよ」

「……」

「だから、待っててくれるか?」

「……嗚呼」


そう答えると男の周囲の空気が軟化する。
その男の姿に胸の辺りに息苦しさを感じながら、俺は微笑んだ。



□ □ □



もう日が暮れ始めているので周囲を片付けた俺はそっと立ち上がり、 男はそれに追従するように立ち上がる。
何時もより男が長居しているのは勘違いではないだろう。
男は未だ名残惜しげにしながらも荷物を持ったまま階段を下りる 俺の後をついて来る。
相変わらず夏の気配を宿したままの空気は何処までも湿めついて、 纏わりついてくるかのような雰囲気を宿しているが、それは恐らく 俺自身が迷っている所為でもあるだろう。
何故なら何も考えず男の傍に居たときは、そんな気温ですら心地よく 感じていたのだから。


「……」

「……」


そうして階段を下りきり、裏口から路地裏に出る。
簡単なことだ、何時ものように笑って、挨拶をすれば良い。
でも俺はどうしても後ろに居る男の顔を見ることが出来なくて、 唇を噛んだ。
こんなことではダメだと一度目を伏せてから振り返ると思っていたよりも 近くに男が居て、驚いてしまう。


「……脅かすなよ、……軋間」

「……やっと名前を呼んだな、七夜」

「……え……?」

「……今日は名を呼ばないものだからてっきり嫌悪されたかと思ったぞ」

「……」


俺は上手く立ち回ろうとしているのに、まるで上手く言っていなかった 事に男の冗談っぽく言われたその台詞で気がついてしまった。
やはりこの男の前では、俺の仮面など容易に剥がされてしまう。
けれど、俺はそれでも欠けた仮面を着け続けるのだ。
……終わりを迎えるその時までは。


「そうか?……あまり意識していなかった……気分を害したなら悪かったよ」

「……いや、此方こそ変な事に括ってしまったな、すまない」

「……そんなこと無いぜ、寧ろ……」

「……」

「アンタにはやっぱり『人』の部分もあるって分かったから、良い事だ」

「七夜……?」

「おっと、そろそろ帰らないと不味いんでな、……じゃあな、……軋間」


男の言いかけた言葉を遮るようにして素早く後ろを向き、荷物を 持っていない方の手をひらりと動かし合図をする。
戸惑うような男の視線を感じたが、それには気がつかない振りをした。
大丈夫、もう、揺らがない。そう自分に言い聞かせながら。



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