―――視界が澄んだ青に染まっている。
俺は、やはり死んでしまったのだろうか。
自分の身体が冷たい水の中に居る感覚以外に特に何も感じ取れず、ぼんやりと瞬きをする。
辺りには何も居ない、何処までも澄んだ水は下に向かうにつれて暗くなっているのが分かった。
自分の口元から微かに零れ落ちる気泡を目で追いながら上を見ると光が射し込んできているのか水が幾何学的な模様を描き出しているのが分かる。
俺はその青い世界の中でただ、たゆたう様に浮かんでいた。


(俺は……)


唇を開けるとまた小さな気泡が零れ落ちる。
不思議と苦しさは無かった。
腹に手を当てると其処にあった筈の傷は塞がっている。
もしかしたら俺は本当に死んでしまったのかもしれない。
いや、そもそも生きてさえいたのか分からないのに。
そんな事を考えていると自分の身体が不意に沈んでいくのが分かる。
このまま溺れて、暗く冷たい水底で息を潜めるように消えていく。
それも、良いだろう。
……俺はそっと目を伏せた。


(……)


すると途端に瞼の裏に赤い炎がちらついて、身体がビクつく。
そうしてあの男が俺を認めたというその事実を突如鮮明に思い出してしまう。
そうだ、どうして忘れてしまっていたのだろうか。
男の強い視線、その腕の温かさ、そうして俺に対して向けられる柔らかいあの笑み。


(……軋間……)


心を通わせる事が出来た、それだけは確かで、それ以上を求めてはいけないと 思っていた。
それでも、このまま消えるのは嫌だ。そんな想いが再び心の奥底から湧き上がってくる。
そして先ほどまでまるで感情を鈍らせていた頭が急激に覚醒していくのが分かった。
始めはあの男にもう一度出会えて、それだけで嬉しかったのだ。
そうして次第に男と話をして、触れ合って、その熱に焦がされる心があるのを感じた。
この亡者にも心があるのだと、そんな恐ろしくも複雑な真実をあの男は その身でもって俺に教えてくれた。
もう二度と起こらないと思っていた奇跡がもう一度、もう一度だけで良い、起きるのならば。


(……あぁ)


俺は沈んでいく身体に抗うように手を伸ばす。
途端に今まで息苦しくなかった筈なのに、肺にまで水が雪崩れ込んでくるかのような苦しさを感じた。
あの明るい世界にもう一度、この身が存在する事を許されるのならば、この苦しさだって受け入れよう。
―――だから、どうか、あの男の傍に俺が存在する事を許して欲しい。
誰に向かって祈っているかは分からなかった。
それでも俺は霞んでいく意識を必死に保つ為に両手を差し伸べる。


「……軋間……!」


段々と身体が浮き上がり、その手が水から出るか出ないかという瞬間、強い 力で引き上げられるのを感じた。



□ □ □



「七夜……!」

「げほッ……けほ……!」


目を開けると俺の横に座っていたらしい男が俺の手を握りながら此方を覗き込んでいるのが、霞んだ 視界の中に映る。
俺は滲んだ視界の中、男を見遣ってから別の所に視線を向けると木で出来た 梁と天井が見え、燭台に置かれた蝋燭が壁にゆらゆらとした陰影を形作っていた。
俺は再び男に視線を戻し、目を合わせる。
先ほどの冷たい水の中の夢とは全く違い、浴衣を着せられている俺は傷の手当てを施されて 温かい布団の中に横になっていた。


「……きしま……」

「……」


男が俺の手をその両手で撫で、そうして其処に頬を寄せる。
温かなその掌に俺は自身の呼吸を整えながら、その男の手を掴む 自身の手に微かに力を込めた。
そうして小さく掠れた声で呟いてみる。


「……俺、……生きてるんだな、……」

「……」

「いや、生きてるんじゃないか……アンタに、生かされてるんだな……」

「そんなもの……どちらでも良い」

「……は……?」


男が俺の手を掴んでいた手の片方を俺の頬に当てる。
その温かな手が俺の頬を労わるように撫でていくのを感じるのと同時に、 その手が本当に微かにだが震えている事にも気がついた。
それに気がついた俺は男を見上げたが、顔を伏せている所為で髪が顔に掛かり男の表情は読めない。
そんな男を見ながら黙って男の言葉を待っていると、男は掠れた 声音で囁いた。


「……お前が、此処に居る……」

「……」

「……それだけで良い」

「……」


縋るように俺の手にそっと唇を寄せた男は痛々しくさえ見える。
きっと男は俺が目を覚ます間、ずっと俺の傍らに居たのだろう。
そうして永遠に目を覚まさないかもしれないという思いの中、それでも 俺の傍らで待ってくれていた。
俺はそっと空いている方の手を布団につき、上体を起こす。
そんな俺の行動に驚いたのか顔を上げた男は慌てたように俺の手を掴んでいた手を離し、俺の身体を抱えるようにして支えた。
俺は自身の身体に巻かれた包帯に男の優しさを感じながら、そっと男の 長い髪を掻き分け、其処にある潰れた瞳に顔を寄せる。
そのまま何度か口付けていると、男が俺を支えるようにしていた腕の力を強め、 此方を抱きしめた。
そして男は俺の肩に顔を埋め、俺の背中をそっと確かめるように摩る。
今此処に生きている、それを確かめるようなその手付きにどうしようも無い 感情を覚えて、俺は男の瞳に口付けていた顔を離し、その肩に顔を埋めた。
そうして深く息を吸い込むと仄かな白檀の香りがして、目の奥がじわりと 熱を持つ。
俺は肩に顔を埋めたまま、掠れた声で囁く。


「……軋間」

「……」

「……なんでだろうな、……」

「……」

「……アンタの傍に居られて嬉しい筈なのに、……ッ……」

「……七夜……」


そうして男の背中に手を回し、その着物を掴む。
そのまましがみつくようにした俺は目から雫が零れるのを感じた。
悲しい訳ではない、寧ろこの感情は歓喜なのだろう。
そもそも泣くことすら殆ど無い俺は、初めて喜びの感情から流す涙を知った。
それはきっともうこの手に『幸福』というものが確かに手に入ったのだと 本能で理解したからだろう。
……そのようなモノはけして手には入らないと思っていた。
しかし、その何よりも尊いモノがこの偽者の手に与えられたという事実が 俺の心を震わせる。


「……っ……」

「……」


男はそんな俺に対し何も言わずにただひたすらにその温かな手で背を摩っていた が、不意に俺の頭を撫でてくる。
そうして滑るように頭から耳、そうして頬に触れた男の動きに俺が顔をあげると 男が顔を近づけてくるので其れを受け入れた。
かさついた唇がこちらの唇に触れてくる感覚と同時に男の指が俺の目尻を拭っていく。
そのまま顔を離し、至近距離で男と見つめあう。
そうして俺の頬に触れている男の手に手を重ねると、そのまま頬から手を離され、 指を絡ませられる。
そこから伝わる脈動が一瞬の違いも無く重なっている事に、俺は男との繋がりを 感じた。
俺はそっと笑っている男に向かって気になっていた事を呟いてみる。


「……アンタ、俺を留めさせる為に結構無茶したんじゃないか……?」

「……気にするな、大した事はしていない」

「……でも、さ……」

「……言っただろう、……お前を二度死なせはしないと」

「……」

「それに……お前がオレの傍に居る為に必要な事ならば、多少の苦労など無いのと同義だ」

「……本当に、アンタは……」


俺は真っ直ぐな視線でそう言い放った男の顔を見ていられなくて、男と繋いだ 手を離さないままにその胸に顔を寄せる。
きっとこの薄暗い中でも俺の顔が赤くなっている事はすぐに分かってしまうだろう。
俺は男の微かな笑い声を聞きながら、その胸元に甘えるように頭を摺り寄せた。



――→拾伍






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