深い海の底に沈んでいく。
青い視界の中、ドンドンと自分が溺れていくような感覚。
止めようにも止まらないその感覚に身を任せてしまおうと目を伏せる。
だが、俺が消えてなくなる前に誰かの手が俺の手を掴んで引き上げた。
不意に引き上げられ、呼吸が出来るようになる。
目を開けた先にはあの男が居た。
そうして強く抱きしめられて初めて今俺はあの丘に来ているのだと気がつく。
この意味の分からない場面転換に、これが夢だと理解できるが、次第にそれもどうでも良くなる。
それほどまでに濡れた身体を抱きしめる男の腕は強く、そうして温かい。
そうして俺は自身の身体が水で濡れているのでは無く、真っ赤な鮮血によって 濡れているのだと分かって、どうして身体が冷えているのかという疑問も解消 された。


『……』

『……』


俺は何かを言おうと口を開くが、何を言うべきか分からずにただ黙ったまま その腕に抱かれている。
まるで本物に抱かれているかのような息遣いを耳元に感じて、俺はゆっくりと 深呼吸した。
それだけで身体中に生気が行き渡る感覚に酔いそうにすらなる。
そこまできて漸く俺は一言だけ言う事が出来た。


『……軋間』

『……』


その声に男が顔をあげ、何かを言おうとその唇を震わせた。
だがそれを聞く前に意識がふわりと宙を舞い、男の姿が見えなくなってくる。
夢なら覚めなければいいのに、と思えども、それはどうする事も出来ずにただ その流れに身を任せた。



□ □ □



「七夜」

「……」

「どうかした?大丈夫?」

「……いや……」


その甘い声にゆるりと頭を振ってから答える。
今見ていた夢がどんな夢だったのか良く覚えていないが、何となく良い夢でも あり悪い夢でもあるように思えた。
けれど俺はその夢を思い出すのが良い事では無いように思えて、さっさと忘れて しまおうと此方を見ている主人に向かって声を掛ける。


「今何時だ……?」

「外の時間?今は四時くらいよ」

「……そうか」


昨夜此処に戻ってきたのが明け方だったから、随分と眠ってしまったらしい。
俺は主人が夢から引き出したらしい薄いベッドから上体を起こし、固くなった身体を解すように両手を伸ばして、それから首を回す。
この微妙な時間では外に出るのも億劫で、何時もだったらもう一眠りするのが 常だが、先ほど見た夢がどうにも頭の片隅にこびり付いてしまって寝るに寝れない。


「七夜」

「ん?」

「トランプでもしましょ?」

「起き抜けにトランプかい?……構わないけどさ」

「ふふ」


俺は主人のその気まぐれさに付き合うのも良いだろうと頭を掻いた。
主人は俺の横になっていたベッドに上がってきて、にっこりと笑う。
そうして片手を差し出すようにするとその掌にトランプの束が浮かび上がった。
そのまま手品のように軽やかな手付きでトランプを扱う主人はまるで奇術師の ようだ。


「……それで、何をするんだ?」

「そうね、ババ抜きでもしましょうか」

「……すぐにどちらが持っているか分かってしまうじゃないか……」

「良いのよ、それで」

「……それならそれで構わないが」


主人は切ったトランプを順当に分けていく。
そうして俺は配られた手札から既に揃っているカードを次々と目の前のシーツの上に捨てた。
二人でやるババ抜きは元々揃う手札が多いものだから結局手元に残るカード など高が知れている。
そういえばこうやって二人っきりでトランプなんてやるのは久方ぶりだと思い出す。
俺が消えてしまう前はよくこうやって二人、様々な暇つぶしをしていたものだ。
俺がカードを捨てたのと同じように主人もカードを捨て終え、此方に示してくる。
そうして互いにそのカードの中から一枚引き抜き、捨てる。


「ねぇ、七夜」

「んー……?」


俺は声をかけてくる主人に答えながら、もう一度カードを捨てていく。
あっという間に無くなっていくカードを見ながら、主人が訥々と語る声に耳を 傾ける。


「こうやって何かを選んでいくのって、似ているわよね」

「……何に」

「……」


気がつけば俺の手元にはスペードの一が残っている。
そうして主人の手元には二枚のカード、そのどちらかがジョーカーである事は もはや明白だった。
しかし俺はそれを選ぶ前に、主人がそっと笑いかけてくるものだから思わず手が 止まってしまう。


「私は貴方が何を選ぶか分からないわ」

「……」

「でも、……どちらを選んだほうが良いかなんて明白でしょう?」

「……」

「……ねぇ、七夜。……分かるでしょ」

「……それは俺にも分からないよ。……俺は預言者じゃないんだから」

「……」


俺はそう言ってから二枚のうち一枚を引く。
その手元にやってきたカードはハートの一だった。
俺はその揃ったカードを目の前にあるカード山の上に捨てる。


「……負けちゃったわ、残念」


くすり、と笑いながら主人が残った最後のカードをその山の上に投げ置く。
ひらりと落ちたそのカードには、不気味な顔をしたジョーカーがひょうきんな ポーズをとってそこに映っていた。
そのジョーカーが妙に寂しそうに見えて、俺は少しだけ目を細める。
そんな俺の目の前でカードを集めた少女は再びそのカードを切って、囁いた。


「やっぱりすぐ終わっちゃったわね……次は七並べでもしましょ」

「……まだやるのかい?」

「だってすぐには出かけないんでしょ、私も夜からじゃないと夢を集められないし」

「まぁそうだが……」

「じゃあ違うのにでもする?」

「……いや、トランプで良いよ」


俺はそう呟いてからそっとため息を吐いた。



□ □ □



夏ののっぺりとした風が髪を撫でていく。
そんな中、俺はビルの上から路地を見つめた。
この時間帯ではもう町は静まり返っている。
ポケットに入ったナイフを衣服越しに撫でると心が少しだけ落ち着いた。
結局あの後、夜になるまで様々な遊戯に付き合わされた俺は主人が夢を見せる 為に出かけるという事で、一人散歩に出る事にしたのだ。
眼下に広がる景色は一年前から大して変わっていない。
でも確実に時は流れていて、俺だけがその時間から放り出されてしまっていた。
別にそれは仕方の無い事だと分かっていて、納得もしていたのだ。
あの暗闇に溶け込んだ俺は何時か誰にも思い返されなくなって、そうして俺自身も 俺の存在を思い出せなくなって、そうして漸く本当の死を迎える。
それで何の問題も無かったはずなのに。


(この町にあの男が……)


あの丘の景色を思い出す。
男の上着が風にたなびき、真っ直ぐな視線が俺を射抜く。
その視線だけで俺は身体が震えるくらいの興奮を覚えた。
赤い男はそこにただ立っているだけで、此方に威圧感を与えてくる。
この形容詞は男には合わないかもしれないが、美しさすら感じた。


『……ずっとアンタに会いたかったんだ』

『……』

『アンタに会って、そうして戦いたかった』

『……お前は随分と人らしくなったな』

『そうかい?……アンタにそんな事を言われるなんて思わなかったよ』

『……』


男の唇が震える。楽しげな声が耳に響いた。
其処まで思い出して、顔を上げる。
やはり其処には変わらない町が並んでいた。
そうして顔を上げると欠けた月が寂しげに浮かんでいる。
そういえばあの夜は満月だったと思い出す。
あの青白い光を湛えた月は男の背後にあって、それは男をより神秘的に見せていた。


(……もう終わった筈なのに)


俺は自身の肩を抱くようにした後、踵を返す。
あの雪原に戻る訳でもなく、俺は何処か気がまぎれる所に行きたいと明け方まで宛も無く町を彷徨った。



――→






戻る