昨日の事は実は全て夢だったのでは無いのかと思う自分が居たが、 当然のように時間は進み、昨日と同じくらいの時間になってしまった。
本当に男は来るのだろうか、分からない。
単純に男が俺をからかっただけかもしれないのだ。
けれどどうしたってあんな風に言われたら期待を持ってしまうのが思考を持つ 生物の悲しい所だ。
俺はぼんやりとしていた意識を雪原へと戻す。
何時もだったら俺が出かけるのを引き止めてくる筈の主人も居ない。
その事が少し気にかかりもしたが、俺は黙って外との境界付近に立ち、片手を あげて空間を湾曲させる。
そうしてするりと抜けるように出た先の路地裏に立つと雨の微かな音と匂いを 感じた。
昨日より降り続いているらしい雨は流石に勢いを弱めてはいるものの、男が 山を越えてくるには面倒だろう。


(……もしかしたら、来ないかもな)


そもそも男は『街に来る』と言っただけで、けして『俺と会う』とは 言っていなかった。
だから別に男の気まぐれで此処に来ようが来まいが何の非も無いのだ。
勿論、俺がそれを批難出来る立場でも無い。
だが、たまたまを装って会うくらいならば問題も無いだろう。
……こんな風に考えるなんて俺も相当可笑しくなってしまったのかもしれない。
そうでなければこんな事を思う自分自身を認められないのだ。
俺は滑るように路地裏を抜け、上手く雨に当たらないようにしながら男の気配を 探る。
どうせ居ないだろうと思いながら探っていたのだが、思っていたよりも近くにその 気配を感じて思わず内心驚いてしまった。
そうして、まさか、と思いながらも昨日男と別れたあの路地裏の方に足早に向かう。
歩を進める度に男の気配が濃密さを増して迫ってくるような感覚がして、遂、足を 止めてしまいそうになるが、それでも結局、足が勝手に進んでいく。
そうして雨に濡れる事も厭わず飛び出した先の路地裏に、昨日と同じく雨宿り出来る場所に佇んでいる男を見つけた。
昨日とは違い、紺色の着物を着ている男は何処か色香を纏っているかのようにすら 見える。
そうして男がゆっくりと顔をあげて此方を見遣ってきた。
男の手には昨日は無かった雫を先から滴らせている赤い唐傘が持たれていて、 その色彩の鮮やかさに思わず目を奪われてしまう。


「……何をしている」

「え、……あ……」


男は俺が雨に濡れるのも構わずに其方を見ていた事を不審に思ったのか声を 掛けてきた。
俺はその声に漸く動くことが出来て、男の隣へと入り込んだ。
すると不意に男の手が此方に伸びてきて俺の髪を払うようにする。
その行動の意味も分からなかったが、何よりも触れられる事に何の抵抗もしなかった 自分自身にも驚いてしまい、思わず男の顔を凝視してしまう。
その俺の視線を自らへの問いだと思ったのか男は少し困ったようにしてから小さく 呟いた。


「……雨の雫がついていた」

「……そうか、……ありがとな」

「……いや」


其処まで会話が続いたが、お互い黙り込んでしまう。
もどかしくてどうにかなってしまいそうだ。
昨夜ももしも男にあったら何を話してみようかなんて色々考えていた筈なのに、 実際男と共に居ると何も言葉が出てこない。
何時もだったらどんな奴だって言葉一つで煙に巻いてしまえる自信すらあるのに これではまるで言葉を忘れてしまったかのようだ。
そんな沈黙の中でも雨はしとしとと降り続ける。
俺はそれが忌々しくもあり、逆にその音を共有出来ているという妙な安心感も あって不思議な心持だった。
そんな事を考えていると男がその低く落ち着いた声で囁きかけてくる。


「昨日は大丈夫だったか?」


そう問われて男が昨日はあの雨の中帰った事を思い出す。
だから今日は昨日の普段着とは違い、着物を纏っているのだと漸く理解 出来た。
どうしてそんな簡単な事にも気がつかなかったのだろうと歯噛みしてしまいそうな 思いを隠しながら男に声を返した。


「俺は大丈夫だよ、……それよりもアンタの方が大変だっただろう」

「大した問題では無い、オレは頑丈だからな……だが大丈夫だったのなら良かった」

「……俺だって別にこの街にいる限り体調を崩したりなんて滅多に無いし……」

「……そうか」


男の優しい言葉にどうしたって素直になれない俺に男は相も変わらず甘い声音で そう返してくるものだから調子が狂ってしまう。
俺の事を殺しておいて、それでいて雨に打たれた程度の事で心配をしてくるなんて 男は相当の変わり者なのかもしれない。
だがしかし、それ以上にそんな男の言葉に乱されてしまう俺の方がきっと余程 可笑しいのだろう。


「七夜」

「……?」

「お前はどの辺りに住んでいるんだ?」

「俺?俺は此処からそう遠くないさ、まぁ少々ここら辺は入り組んでいるから迷いやすいけど」

「そうだな……少々手間取った」

「え?」

「……いや、なんでもない」


男が何か小さく呟いたが鮮明には聞き取れなかった。
しかし余り男が突っ込んで聞かれたくなさそうだったので俺は敢えて別の 事を聞いてみる事にした。


「アンタは相変わらずあの森に住んでるのか」

「……そうだな」

「……そっか」

「……お前は、あの時のように森に来る事は出来ないのか」


『あの時』が何時を示しているかなど明白だった。
俺は男が自分からあの日の話を振ってくるとは思っていなかった為に少々驚いて しまう。
だがこれは聞きたかった事を聞く絶好の機会では無いのかと俺はそれと無く 会話を続けてみる。


「俺は御主人様に縛られて漸く生きていられるからなぁ……」

「……あの怪猫か」

「まぁ、そうだな。……だから主人の手が届かない所に行くのは出来なくは無いんだけど」

「……」

「行きは良い良い、帰りは怖い……って感じでどうしたって難しい」

「……」

「行くだけなら、なんとか出来るけどな」

「お前は来なくていい」


俺が軽い調子で言った言葉に急に鋭さを増した声で返してきた男に驚いてしまって 男を見遣ると男がまた先ほどと同じように困ったような顔をしてから呟いた。


「……オレが、来よう」

「……だって」

「買出しに来る必要もある」

「……」


なんだろう、このムズ痒いような感覚は。
俺だけが会いたいと思っていると考えていたのに。
これではまるで、……其処まで考えて段々と赤くなる顔を隠すために さり気無く口元に左手の甲を押し当てる。
これでは益々何も言えなくなってしまうでは無いか。
会う理由を無くしてしまったら、それこそ、後悔しかしないのが分かって。
―――畜生、とどうしようも無い思いに対してそう悪態をついてみる。
この複雑な感情を一体どう分類したら良いのか分からない。
こんな思いなど、感じたことも無いのだ。


「どうかしたのか?」

「……なんでもない」

「……そうか」

「……」

「……」

「……今日……」

「ん?」

「雨、降っててあれだが……晴れたら……」

「……」

「……晴れたら、いい場所に連れてってやるよ」


そう男から顔を背けながらもそう呟いてみる。
男を探す為にずっと上っていたあのビルの屋上は誰にも邪魔される事も無く、 落ち着いて話をするのも可能だろう。
少し暑いのが難点だが、それは日陰に入ってしまえば問題ない。
男は暫し返答に悩んでいるようだったが、小さく笑いを込めたような声が背後 から響いてくる。


「其処は酒も呑めるか」

「呑めるけど、持っていかないと無理だな……それよりも真昼間から呑むつもりか?」


俺は背けていた顔を戻して男を見遣る。
そんな俺に対してそっと笑った男は俺から視線を外して空を見上げながら囁いた。
男の紺色の着物の袖がそれに付随するように僅かにひらり、と揺れ動く。


「お前と一度呑んでみたかったからな」

「……」

「……どうした?……顔が赤いぞ?具合が悪いのか?」

「なんでもない!」


男が此方を心配そうに覗き込んできた時にはもう片手では隠しきれない程に自分の顔が赤みを 帯びているのが分かって、酷く複雑な気持ちのままどうにかそれを誤魔化す。
男は暫し心配そうな顔をしていたが、また外に顔を向けたので俺はその横顔を そっと見遣ってみる。
この男が傍に居る事、それが本来なら可笑しいのにどうしてこんなにも嬉しく 思ってしまうのだろう。そんな風に考えながら。



□ □ □



結局あの後男と他愛も無い雑談をして、そうして明日も同じ刻限に会う事を 約束した。
俺はブラブラと慣れた道を適当に目的も無く歩んでみる。
帰っても良かったのだが、一人で居る時間が欲しくなったのだ。
別に何を考えるというわけでもない。
ただ、男と話した事、男の姿、こちらを見る視線。
そんな事を馬鹿みたいに反芻しては記憶に刻み付けていく。
その作業をする度に元々俺の中に存在していた男の影が鮮明さを増して、 そうして大きくなっていくのだ。
どうして俺の中に男の存在が消えないのか、その理由を確かめたかった筈なのに これではまるで意味が無いではないか。
でもどうしたってその作業を止める事は出来そうに無い。
……止めたいとも、思えないのだから。
明日も、明後日も、男に会えるのだろうか。
そんな本来だったら有り得ない思いを抱えながら俺は雨の降る音を聞きつつ確かめるようにゆっくりと歩み続けた。



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