昨日と同じようにあの路地裏に行くと、今日は着物では無く普段着を着た 男が立っていた。
なので俺はそんな男に向かって片手をあげて挨拶をする。


「……よ」

「……あぁ」


こんなやり取りを男とするなんて思っても見なかったが、どうにでもなれ、と 思っている自分が居て、少しばかり驚く。
それにまだ俺は自分に言い訳が出来るように幾つもの事を残しているのだから 、別におかしなことで無いはずだ。
そんな風に思っていると男が俺の死角になっていた方の手に持っていた物を 持ち上げ、俺に見せてくる。
茶色の紙袋ががさりと音を立てるが、一体何なのか俺には分からずに首を傾げた。
すると男はそっと説明するかのように呟く。


「酒を持ってきたのだが……」

「え、……本当に持ってきたのか?」

「……」

「……なら早く行こう、今日はこの天気だし丁度良い」


男のそのおずおずとした問いに俺は一瞬、呆けた表情をしてしまったが、すぐに 笑って男に返した。
今日は昨日の雨が嘘のようにカラリと晴れ渡り、風も凪いでいる。
雨上がりの匂いは余り好みではなかったが、男と酒を呑めるならそんな事等気にも ならないだろう。
その前に本当に男が今日も此処に来てくれているかどうかが気になってしまって そんな事を気にしている余裕も無かったのだが。


「あぁ、そうだな」

「あ、でも、杯が無いよな?」

「……それも準備済みだ」

「……」

「どうした?」

「……っく……いや、アンタって結構気が利くなと思ってさ」

「……それは褒めているのか?」

「褒めてんだよ、当たり前だろう?」

「……」


ふとその重要な事を思い返し俺が男に言うと、男は僅かに得意げな顔をしてそう 言うものだからつい、可笑しくなってしまった。
こうやって男と話すたび、俺が知らない男の一面を知る。
そうして俺自身が実はこんな風に笑えるという事も。
男の傍に居るだけで新しい感情が次々と生まれ出でてくるかのようで、その思い が複雑だけれど、面白い。


「さてと、……じゃあ、行きますか」

「……嗚呼」


俺はにっこりと笑って男にそう言うと、男が一瞬の間を置いてからそっと笑って 答えた。



□ □ □



「これ……随分と良い酒なんじゃないのか」

「……オレの好みの物を持ってきたのだが……」

「おいおい、山に住む仙人さんにしては随分と趣味が良いんだな」

「まぁ、酒くらいしか嗜好物も無いからな」

「……なるほどね」


何時ものように入り込んだ廃ビルの屋上の影になる場所に二人で座り込み、 男の持ってきた紙袋を開ける。
其処には何本かの酒瓶が入っており、一目で高価そうなものだと分かった。
そうしてその中に入っていた紙に包まれた陶器製の杯も一緒に取り出す。
まさか自宅から本当に持ってきているとは思ってもみなかったが、この為に 準備をしてくれていた男を何処か可愛らしく思う。
……可愛らしい?
ふ、とそんな考えが過ぎった自分に対して否定するかのように頭を振ると、男が 不思議そうに此方を見遣ってきたので慌てて弁解をする。


「いや、なんでもない」

「そうか?」

「……それより早く呑もうぜ、日が暮れちまう」

「……そうだな」


男が俺の手から杯を一つ取った後、近くにあった酒の一本を開け、此方に酌を してくる。
俺はそれを持っていた杯で受けてから、男の手より瓶を受け取りその杯に零さない ように酌をしてやった。
途端に広がる酒の薫りが鼻に届き、透明な波紋を描くその酒は目に迫る。
そうして男に向かって杯を持つ方の手を伸ばせば、男も同じようにこちらに杯を 差し出し、チン、と軽い音が響く。
そのまま俺はそれを口元まで運び、一口呑む。
少しばかり辛口ではあったが、癖も無く呑みやすい一品だ。


「……美味いな」

「だろう?」

「……あぁ、こんな良い酒は久方振りだよ」


素直な感想を口にすると男は俺と同じように杯を傾けてから自慢げにそう返してくる。
確かにこれほどの酒ならば自慢げにしていても、問題無いだろうと思えるほどに 美味かった。
俺はただ黙々とその酒を嗜む事に集中する。
男がわざわざ持って来てくれた自慢の一品だ、確りと味わなければ礼を失するだろう。
そうして暫し互いに沈黙のまま酒を呑んでいたが、不意に男がこちらに向かって呟く。


「……お前は」

「……?」

「俺を恨んでいるか」

「……」


男は至極真面目な顔をしながらそう言った。
俺はその言葉にすぐには返す事が出来ず、とりあえずもう一度杯に唇を近づけ、そこにある酒を啜る。
確かに男は俺を殺したのだから本来なら俺は男を恨むのが道理なのだろう。
でもその前に男に殺し合いを持ちかけたのは俺だ。
その結果が俺の死というものになってしまっただけで、それは仕方の無い事だったのだろう。
あの魘されるような熱気に包まれた殺し合いを行えた事、そうして『七夜』としての精算を終える 事が出来た事。
それらを感謝や喜びこそすれど、けして男を憎むという方にはならない。
それはもう俺の中に男に対しての憎しみというものが存在していないからだろう。
いや、もしかしたら自分が気がついていないだけなのかもしれない。
それでも口に出して男を詰ってやろう等とは思わなかった。
それ以上に、俺にその問いを出した男が何処か、苦しげに見えてしまったのだ。


「……アンタがもし俺の立場だったとして」

「……」

「アンタは俺を恨むかい?」

「……どう、だろうな」

「……それが答えだよ」

「……」


俺の答えに考え込むように黙り込んでしまった男が少し可笑しくて、俺はそっと笑う。
すると男はそんな俺の反応に不思議そうな顔をしてみせるものだから、もう一度杯を口に 運んでから俺は軽く笑いながら男に向かって言葉を掛けた。


「まぁ、そう重く考えなくたって良いさ。……俺はアンタとあの夜、戦えた事を愉しく思えたんだからそれで良いんだよ」

「……」

「っと……酒が無くなっちまった……」

「……注ごう」

「……あぁ」


未だに納得しかねている様子の男に向かって俺は話題を変える為に空になってしまった杯を差し出す。
男はそんな俺の杯に再び瓶より酌をしてくれた。
あの夜の事はもう一年も経った事柄だ。
それに何よりも今、大切なことはこうやって男と話が出来ているという事実に他ならない。
だから今は、今だけは様々なしがらみを忘れていたかった。



□ □ □



気がつけばある程度の量あった筈の瓶が全て空になっており、空も少しだけだが薄暗くなり始めている。
特につまみも食べずに酒ばかり呑んでいたが、悪酔いも無い。
だが何時までもこうしている訳にもいかないと俺は男に声を掛けた。


「……そろそろ帰った方が良いんじゃないか?山を登るんだろう?」

「……そうだな、……」

「あ、良いよ、瓶は俺が処理しておくから」

「……とりあえず下まで持とう」

「別に良いって、アンタはこんなに良い酒持ってきてくれただけで充分だ」

「……いや、それくらいはさせてくれ」


俺は近くにあった瓶をかき集め始めると男もそれを手伝うように近くにあった瓶の一本を俺に 差し出してくる。
その瓶を受け取ろうと手を伸ばして掴んだ時、たまたま男の指先と触れ合ってしまう。
確かな熱を帯びた指先は生きている証だ。
刹那、そんな思いが浮かび上がるがそれを振り払い瓶を受け取る。
男は何かを考えているような表情をしていたが、一体それが何なのかはわからなかった。
俺たちは近くにあった瓶を拾い集め、男が持ってきた紙袋に杯と一緒に仕舞い込む。
そうしてそれを俺が取る前に男が掴んで立ち上がりつつ持ち上げた。


「……じゃあ、下りるか」

「嗚呼」


俺も立ち上がり、廃ビルの屋上の扉を開けて先に男を通してやる。
そうして二人とも無言で階段を下り、裏口から路地裏へと出た。
俺は男が持っている紙袋を受け取ろうと手を伸ばすが、それは男の無言の拒絶を受けてしまう。
慌てて俺は男に声を掛けていた。


「おい、後片付けまでアンタにさせられないよ」

「気にするな。……どうせ帰り際に処理できる」

「でも……酒も持ってきて貰ったのに……」

「お前が場所を用意してくれただろう」

「いやいや……何もしていないじゃないか」

「……じゃあ……」

「?」


男は暫し黙り込んだ後、そっと笑いながら囁く。


「……今後も、付き合ってくれるか」

「……!」

「……酒はまた用意する。……別に毎日呑み合いでなくてもいいのだが」

「……それでアンタが良いなら……」

「……それで良い」

「……」

「……決まりだな」


俺が黙っている間にそう男は結論付けて、空を見上げる。
釣られるように見た空はもう暗くなり始めていた。
そうして男の方に視線を戻すと、男が名残惜しげに(そう見えただけかもしれないが)瞬きをした後、 囁く。


「では、また明日、な」

「……あぁ」


そう言って男は後ろを向き、紙袋をがさがさと鳴らしながら段々と遠ざかっていってしまう。
少し酔いが回ってきたのかその後ろ姿に声を掛け、手を伸ばしてみたくなるがグッと堪えた。
別にわざわざ引き止めて、話す事柄も今は無い筈なのだ。
それなのにどうしてこんなにも、離れがたく感じてしまうのだろう。
俺は男の背中が見えなくなるまで見送った後、小さく誰にも聞こえないくらいのため息を吐いた。



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