男と別れてから雪原の空間に戻ってきたのだが、主人はテーブルの上に何か紙切れを残していなくなってしまっていた。
俺はその紙切れを手に取り、そこに書かれている文面を読む。
暫くシオン達の所へ行く、という事柄が記されていた。


「……」


ふ、とため息を吐いて俺は近くにある椅子を引いて其処に腰掛ける。
主人の所へ向かおうかと一瞬思ったが、何処に行っていたのかを問われて 上手く答えられる自信が無かった。
何より男と会ったばかりなのに、もう明日の約束を待っている自分が居て、 そんな感情を隠せる気もしないのだ。
あの男と会う度、会話を交わす度、俺の感情が波を立てる。


「……なんだってんだ」


誰も居ない空間で一人呟く。
もう本当はこの感情が何を示しているかなんてわかっているのだ。
けれどそれを認める訳にはいかない。
何故なら俺はそのような感情を許された存在では無いからだ。
そうして男はきっと俺に対してそういう感情を持っている筈は無いのだから。
否定をされる事は疾うに慣れた。
だが、この新しく生まれた感情を否定されるのは、苦しくなってしまう。
ただでさえ、苦しんでいるのに。
酒が回っているからだろうか、心の奥底に仕舞い込んだ感情がドロドロと表層に 浮かび上がってくる。


「……ッくそ……」


片手で髪をくしゃりと掴むようにする。
その感覚に、あの初めて男と会った日の別れ際男が俺の髪を撫でていった感触を 思い出してしまった。
この身体の何処まであの男は入り込んでくるのだろう。
この心すら寸分の隙も無くあの男に占められてしまった時、俺はどうなって しまうのか。
忘れてしまいたい、でも、けして忘れられない。
この思いの果ては何処に行けば、癒えるのだろう。
まだ、男に問いかけていない事柄を問うてしまったが最後、俺はこの気持ちに 名前をつけなければいけないだろう。
ふ、と俺はあの夜の事を思い返していた。



□ □ □



腹を貫かれる衝撃に思わず息が詰まる。
けれどその熱い腕で腸を裂かれる感覚は嫌ではなかった。
苦しい、だけれどそれよりも俺の目の前に居る男が複雑そうな表情を 浮かべているものだから、俺は精一杯の虚勢を込めて笑う。
真っ白な月の光に照らし出された男はその影になっている顔を僅かに顰めた。
あまり、上手く笑えていなかっただろうか。


『……そんな、顔……すんなよ』

『……』


するりと力の抜け始めている手で男の手に触れる。
確かな生の温度、消えない炎のような、何者にも冒されない。
なんて、神々しくも寂しいのだろう。
男が俺の腹より手を抜かないのは、抜いた途端に俺がさらに死に近づく事が 分かっているからだ。


『……軋間……』

『……オレ、は……』

『……いいんだ、……間違ってない……アンタは、何にも……っぐ……!』

『……!』


口から赤い液体が迸るように溢れ出でる。
その液体は目の前に居た男の顔や身体に容赦なく掛かり、俺はそれに申し訳なさを 感じてしまう。
それと同時に俺同様に血に塗れた男の姿は何よりも甘美な旅の道連れとなるだろうとも 感じる。
ただ一人闇に落とされるのは別に構わない。それが定めならば、慎んで受け入れよう。
けれど、最期に瞳に刻む姿は何をおいても男が良かった。
……このような感情など、誰にも悟られてはならない。
それは自分自身もその中に含まれている。
表に出てきそうになったその感情を押し留め、俺は皮肉っぽく口端を動かして もう消えかけた意識の中、囁く。


『……先に逝って、待ってる……から……』

『……ッ、……オレは……』

『……さよなら、だ……』

『……七夜……!』


その後男が俺を抱きしめるようにして何かを何度か呟いた気がした。
だけれどもうその言葉は俺の脳内に届く事は無い。
混濁していく視界の中、俺を覗き込んでくる男の顔は、酷く辛そうに見えた。



□ □ □



考え込んでいた為に伏せていた目を開ける。
あの赤い視界とは違って真っ白な世界にはあの男の姿は見えない。
当然の事なのだが、少し違和感を感じてしまった。
俺は何時から男に毒されてしまっているのだろう。


「……いや……違う」


そこまで考えて俺は自分が間違っていることに気がついて、思わず囁く。
顔をあげ、灰色の空を見上げる。


「……ずっと、……」


あの夜からか、それともその前からか。
けれど俺は疾うの昔にあの男に縛られ続けているのだ。
それが憎悪だと思っていた。
だから俺はあの男と戦い、精算をした。
でも、あの精算は俺の鎖を解いてくれなかった。
それはあの男の言いかけた言葉のせいか、それとも俺自身の所為なのか。
―――もしくはその全てか。


「……軋間……」


俺は自分の右手で左手を擦るようにする。
空虚に響いたその名は俺の耳にだけ押し入ってくるのが分かった。
引かなければならない時点は此処なのだろう。
でも、俺は明日も同じように男に会うのを望んでしまっている。
俺はきっと酔いすぎてしまっているのだろう。
だからこんな風に無意味な思考を重ねてしまっているのだ。
そう無理矢理結論つけて、俺は空間の奥にあるベッドへと向かうため椅子から立ち上がった。



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