「……居なくなった?」

「……まぁ、居なくなったというか、居る場所は分かるんだけどな」

「……」


隣に居る男にそう会話の中で軽く言ってみせると男が眉を寄せる。
結局昨日はあのまま眠ってしまったのだが、朝になっても主人の姿は見えず、 俺はそのまま男と会う時間になってしまったので外に出てきたのだった。
そうして何時ものようにあの屋上に男と二人上がった俺は、ぽつりとそんな 事を言ってしまったのを後悔する。
このようなことを男に言っても仕方の無い事だろう。
だが男は暫し考え込んだ後、小さく囁いた。


「……オレの所為、か?」

「!……違う、……悪かったよ、アンタには関係ない事なのにこんな事言われても困るよな」

「……いや……」

「本当に……気にしないでくれ」


思わずその言葉を聴いて男の腕を掴んで必死になってそう言葉を紡ぐ。
そんな俺の姿を見て男は驚いたような表情をするものだから、俺はその手を そろそろと離して視線を逸らした。
こんな風に追いすがるようにされた所で男にはきっと不可解なだけだろう。
俺は話を逸らそうとぽつりと呟いた。


「……そうだ」

「……?」

「……この間、アンタが好みそうな酒を見つけたんだ」

「……」

「だから今度は俺が買うからまた付き合ってくれよ」

「あぁ、……お前が相手ならなんでも構わない」

「……は……」


そっと笑いかけられながら言われたその台詞にドクリと作られた心臓が動く。
どうしてこの男はこんな台詞を惜しげもなく言うのだろう。
それがどれだけ俺を動揺させるかなんて、きっと分からないのだろうが。
俺は咳払いをしてから冗談っぽく言ってみる事にした。


「……全く、アンタって奴は意外と気障なんだな」

「……気障?」

「そういう甘い台詞は女にでも言った方が良いぜ?……勘違いされても困るだろう?」

「……それは……どのような勘違いになるんだ」

「……え、……いや……」


真っ直ぐな視線でそう言われて、段々と顔が熱を帯びていくのが分かる。
それを説明をして、平常心で居られるわけが無いのだ。
ぐるぐるとした思考の中で悩んでいると、男の抑えるような笑い声が聞こえて 顔を上げる。


「……っく……」

「……何笑ってんだよ!」

「いや……そこまで動揺するとは思ってもみなかったのでな」

「……馬鹿にしてんのか……?」

「馬鹿にはしていない……ただ」

「ただ?」

「……思っていたよりも初心なのだな、七夜」

「ふッ……ざけんな!」


男の腕に半ば本気でパンチをしてみるが、どうせ大したダメージにもならないのだろう。
相変わらず男は優しげな瞳のまま笑ってくるものだから俺は結局何も言えなくなって 黙り込むしか出来なかった。



□ □ □



何時ものように男と別れ、あの雪原の入り口にあたる路地裏に戻ると見知った 人物が立っていた。
俺は素直にその事に驚くが、それも当然だろうと思い直し彼女……リーズに声を 掛ける。


「……こんにちは、リーズさん」

「……やぁ、あれ以来顔を見せにこないから心配していたんだよ」

「俺の主人が邪魔をしているみたいだね」

「……あぁ、……そうだね」

「……とにかく中に入って話そうか」

「悪いね……お邪魔するよ」


そっと寂しげに笑ったリーズから視線を逸らして俺はどうせ話すのなら早い方が良いと 雪原への扉を開く。
その白い世界は変わる事無く俺たちを受け入れた。
本来なら主の居ないこの境界は許された人物しか立ち入れないようにプログラムされて いる。
リーズが何の問題も無く入れるという事は主人の許可があるという事に違いなかった。
俺は雪原の中央に置きっぱなしの椅子とテーブルを指差し、リーズに示してみせる。
そうして俺の向かい側にある何時もは主人が座っている椅子にリーズは腰掛けた。


「……それで、彼女の様子はどうだい?」

「君は……自分で確認しにくる気はないのかな」

「……考えもしたけどね。……逆に傷つけるだけだ」

「……そう」

「……貴方は、……責めないんだね、リーズさん」


俺のその言葉にそっと視線を落としたリーズは小さく呟く。
その声には痛みのような色が含まれていて、俺は複雑な気分に陥ってしまう。


「……私はね、七夜君」

「……」

「君に彼と会うのを勧めたのは間違っていなかったと思っているよ」

「……」

「でも、その結果、彼女を傷つけてしまうとは思っていなかったんだ」

「……それはそうだろうね。……貴方は彼女から詳しくは聞いていないんだろう?」

「……詳しく、というよりも、彼女は余り話したがらなかったから」


そこで黙り込んでしまったリーズに俺は何を言えばいいのか分からずに小さくため息を 吐くしかできない。
リーズはそのまま黙っているのでは埒が明かないと思ったのか、再び話し始めた。


「私は、……皆に幸せになって貰いたいんだ」

「……」

「君にも、彼女にも。……勿論、『彼』にも」


その台詞に思わず顔を上げるとリーズは優しく微笑んでいた。
―――『幸福』だなんて、そんなもの俺には得られる筈も無いのに。
それでも彼女はそれをただ、信じているのだろう。


「……『幸せ』、ね……」

「……でも私、……いや、私達じゃどうにも出来ないんだ」

「……」

「……ただ、私達はこの一年間、頑張ってきた彼女を見てきた」

「…………」

「そうして……きっと『彼』も、悩んでいたんだと思う」

「……そう、かもな」

「……よく考えてくれるかな、七夜君。……彼女はきちんと此方で保護しておくから」


それに答える言葉がまるで見つからない俺を和ませるように、リーズは一転して 明るい声音で言葉を紡いだ。


「あぁ、でも迎えにくるかもしれないって時はなるべく私が居る時がいいかも」

「……?」

「シオンが珍しく怒っちゃってさ……彼女も意外と乙女だから」

「……嗚呼、……肝に銘じておくよ」


そこで漸く少しだけ笑った俺に、リーズは安心したように吐息を洩らした。
そうして彼女は不意にすっくと立ち上がったので俺は僅かに驚いてしまう。


「……そろそろ帰るよ、あんまり長居するのも迷惑だろうし」

「…………送らなくて平気かい?」

「なんとか此処まで来れたから帰れるよ」

「……そうか」


ふ、とお互い含み笑いをしてから俺も立ち上がり、先ほどの入り口へと向かう。
そうして片手をあげて扉を開くとリーズは挨拶をしてから闇へと消えていった。
俺は一人きりになって、そっとこみ上げてくる笑いに頭を支配されそうになる。
こんな人間臭い感情など、なければよかったのに。
この感情を刻み付けたのは誰だ、どうして。
……そんな事を思ってもその思いは消えない。


「『幸せ』なんて、……そんなもの……俺には……」


不意に身体や心に刻み付けてしまった男との会話や触れ合いが思い出される。
ダメだ、と思っても一度思い返された記憶は大きな波となって俺にぶつかって来た。
今までずっと抑え続けてきた思いがもう止められないくらいにその存在を主張 してくる。
あの低く掠れた声音を、大きく熱い手を、そうして強い光を宿した瞳を。
こんなにも、こんなにも、――――と思ってしまうなんて。


「……馬鹿だな……俺も……」


俺は自分の目から滴り落ちる微かな雫を無視して、目を伏せる。
やはり俺はあのまま死んでいるのが正しかったのだろう。
……もう一度、あの夜をやり直してしまえば良い。
そう誰かが耳元で囁いたような気がした。



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